徳川家綱

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*篠田 達明 『徳川将軍家十五代のカルテ』 (新潮新書) 2005 *篠田 達明 『徳川将軍家十五代のカルテ』 (新潮新書) 2005
     
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徳川 家綱とくがわ いえつな、寛永18年8月3日 (旧暦)(1641年9月7日) - 延宝8年5月8日 (旧暦)(1680年6月4日))は江戸幕府の第四代征夷大将軍(在職1651年 - 1680年)。 3代将軍徳川家光の長男。母は側室宝樹院増山氏だが、竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。乳母は矢島局。正室は伏見宮貞清親王の娘・浅宮顕子。 側室に養春院(お振)、円明院(お満流)。

経歴 

江戸城本丸に生まれる。父の家光は、弟徳川忠長との間で世継争いがあったとも言われ、早くから家綱を自らの後継ぎに決めていたという。正保元年(1644年)12月、名を「家綱」と改め、正保2年4月に元服。

慶安3年(1650年)9月に西の丸へ移り、翌1651年(慶安4年)家光が48歳で死去すると、家綱は8月18日(新暦10月2日)、江戸城において征夷大将軍宣下を受け、内大臣に序せられる。12月には本丸へ移る。この前例を受け、家綱以後の将軍宣下は京都ではなく江戸で行われることとなる。

徳川将軍家を継承したときわずか数え11歳に過ぎなかったため、家光死去の直後に浪人の騒擾未遂事件(慶安の変:由比正雪・丸橋忠弥による幕府転覆計画)が起こるなど政情不安に見舞われたが、叔父保科正之や家光時代からの大老酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)、老中松平信綱、阿部忠秋らの補佐によりこの危難を乗り越え、29年間の安定政権をみた。家綱の時代には幕府機構の整備がさらに進められ、浪人を出さないよう改易を大幅に減少させたり、殉死禁止令や末期養子の禁を解除するなど、これまでの武力に頼った武断政治から、文治政治への政策切り替えが行われた。

万治2年(1659年)4月には左大臣に任じられるのを辞退している。寛文4年には1万石以上の大名に対する領地朱印状を、さらに翌年には公家や寺社を対象とした領地朱印状を交付。

家綱は生まれつき体が弱く、しばしば病気にかかっていた為、晩年には幕府財政の悪化、大老酒井忠清の専制を許し、幕府の勢威のかげりの端緒を招いた。生来病弱で40歳で没するが、子はなく、大老酒井忠清は源実朝の没後にならい祖父・徳川秀忠の兄・結城秀康の血を引く有栖川宮幸仁親王を将軍に迎えようとしていたとも言われるが、堀田正俊の勧めにより、延宝8年5月、末弟の徳川綱吉を養子に迎え、将軍後嗣となった。墓所は上野寛永寺、法名は厳有院。

また、政務を全て重臣任せにして、自らは「左様せい」で決裁していたことから、「さようせい様」という異名が付けられた。

なお、家光の2男で家綱の長弟・徳川綱重は甲府の25万石の藩主となり家綱の次の将軍候補と目されたが、1678年に没した。

6代将軍・徳川家宣と館林藩主・松平清武の伯父で7代将軍・徳川家継の大伯父にあたる。弟・綱吉の正室・鷹司信子と側室の瑞春院は義妹。

エピソード 

  • 家綱が食事をしていた時、汁物を飲もうとすると髪の毛が入っていた。家綱は平然と髪の毛を箸でつまんで取り出したが、小姓はあわてて新しい物と交換しようとした。家綱はその小姓に対しその汁は途中で捨て、椀を空にして下げるように、と言った。これは椀を空にすることにより、普段のおかわりと同様に扱えということで、処分される者が出ないようにとの配慮からであった。
  • 家綱が将軍職を継いで間もない頃、即ち家綱が少年時代のこと、江戸城本丸の天守閣に上った際、側近の者が遠眼鏡をすすめたところ、「自分は少年ながら将軍である。もし将軍が天守から遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れたら、おそらく世人は嫌な思いをするに違いない。」と遠眼鏡を手にしなかったという。
  • 遠島になった罪人の話を聞いた家綱は、彼らは何を食べているのだろう、と近臣の者に尋ねたが誰も答えることができなかった。そこで、家綱は「命を助けて流罪にしたのに何故、食料を与えないのか。」と言った。それを、聞いた家光は喜び、「これを竹千代(家綱)の仕置きはじめにせよ。」と命じ、流人に食料を与えるようになったという。

参考文献 

  • 江ノ島マニアック http://mirabeau.cool.ne.jp/enoshima/sanmen/tokugawa.html
  • 中江克己 『図説徳川将軍の「お家事情」』 PHP研究所  2007
  • 岡谷 繁実 (著) 安藤 英男  『徳川将軍の人間学 』
  • 篠田 達明 『徳川将軍家十五代のカルテ』 (新潮新書) 2005

  

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