コロンブス

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2009年1月28日 (水) 02:26の版
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2009年1月30日 (金) 00:37の版
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(誕生~アメリカ大陸発見まで)
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探検家・航海者として、大航海時代に名をはせた、クリストファー=コロンブス(Christopher Columbus)は、前半生については諸説あるため、不解明な部分が多い。通説では1451年、イタリアのジェノバに生まれ、毛織物業者に父を持ち、若いころから貿易商会で働き、20歳を超えたころから貿易船に乗り組むようになったとされている。エーゲ海、地中海と航海経験を積み、戦争に巻き込まれるという危険を機に、次第に一人前の航海士として成長を遂げていった。コロンブスは、ポルトガルのアフリカ西岸を南下する探検航海にも参加して体験を重ね、84年にアジア(当時インディアスと呼ばれる)への航海計画をポルトガル王へ売り込もうとしたが成功せず、修道士の紹介でスペイン国王にも謁見したが、なかなか許可を得られなかった。 探検家・航海者として、大航海時代に名をはせた、クリストファー=コロンブス(Christopher Columbus)は、前半生については諸説あるため、不解明な部分が多い。通説では1451年、イタリアのジェノバに生まれ、毛織物業者に父を持ち、若いころから貿易商会で働き、20歳を超えたころから貿易船に乗り組むようになったとされている。エーゲ海、地中海と航海経験を積み、戦争に巻き込まれるという危険を機に、次第に一人前の航海士として成長を遂げていった。コロンブスは、ポルトガルのアフリカ西岸を南下する探検航海にも参加して体験を重ね、84年にアジア(当時インディアスと呼ばれる)への航海計画をポルトガル王へ売り込もうとしたが成功せず、修道士の紹介でスペイン国王にも謁見したが、なかなか許可を得られなかった。
 一方、88年にはポルトガルでバルトロメウ・ディアスがついにアフリカの喜望峰を迂回することに成功し、次の航海では間違いなくインドに到達できることがほぼ明らかとなった。  一方、88年にはポルトガルでバルトロメウ・ディアスがついにアフリカの喜望峰を迂回することに成功し、次の航海では間違いなくインドに到達できることがほぼ明らかとなった。
-すでにフィレンツェの学者であるトスカネリからも支持を受けていたコロンブスは、地球が球状であることを信じ、大西洋を西へ航海すればポルトガルの航海より早くインディアスに到達できると考えていた。しかし、くり返しスペインから却下されたため、一旦は弟が雇われていたフランスへ向かおうとする。しかし1492年に、スペインはグラナダをついに攻め落とし、財政上の余裕ができたため、スペイン王室はコロンブスに援助を与えることを決めた。ようやく彼の希望が聞き入れられることになって呼び戻され、1492年8月3日、3隻の船でパロス港を出港、歴史的な壮途についた。一旦カナリア群島に立ち寄って、9月8日から船団は陸影を全く見ない不安な公開を約1ヵ月も続けた頃、船員の不安と忍耐は限界に達した。10月6日には小規模な暴動が起こり、船員たちはコロンブスに迫って「あと3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。ついに見張りが前方に陸の姿を見たのは、10月12日の午前2時頃だったという。+そのころ、フィレンツェの学者であるトスカネリからも支持を受けていたコロンブスは、地球が球状であることを信じ、大西洋を西へ航海すればポルトガルの航海より早くインディアスに到達できると考えていた。しかし、くり返しスペインから航海計画を却下されたため、一旦はフランス(弟が雇われていたため)へ向かおうとする。しかし1492年に、スペインはグラナダをついに攻め落とし、財政上の余裕ができたため、スペイン王室はコロンブスに援助を与えることを決めた。ようやく彼の希望が聞き入れられることになって呼び戻され、1492年8月3日、3隻の船でパロス港を出港した。一旦カナリア群島に立ち寄ったが、9月8日から船団は陸影を全く見ない不安な航海を約1ヵ月も続けた。不安と忍耐は限界に達した船員たちによって、10月6日には小規模な暴動が起こり、船員たちはコロンブスに迫って「あと3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。ついに見張りが前方に陸の姿を見たのは、10月12日の午前2時頃だったという。
- コロンブスが到達したのはバハマ諸島の中の一島で、彼はこれをサンサルバドル(聖なる救世主)島と名付けた。その時先住民たちは贈り物を持ってきて交歓したので、コロンブスはキリスト教を伝えるにふさわしい善良な人々だと考えた。また彼は、インディアスについたのだと信じたので、先住民たちをインディオ(英語ではインディアン)と呼ぶようになった。+ コロンブスが到達したのはバハマ諸島の中の一島で、彼はこれをサンサルバドル(聖なる救世主)島と名付けた。島に着くと、先住民たちは贈り物を持ってきて交歓したので、コロンブスはキリスト教を伝えるにふさわしい善良な人々だと考えた。また彼は、インディアスについたのだと信じたので、先住民たちをインディオ(英語ではインディアン)と呼ぶようになった。
- その後、同船船長であるマルティン・アロンソ・ピンソンの独断によりピンタ号が一時離脱してしまうが、12月6日にはイスパニョーラ島を発見。24日にサンタ・マリア号が座礁してしまう。しかし、その残骸を利用して要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入植地を作った。この入植地には50名の男が残った。+ その後、12月6日にはイスパニョーラ島を発見。24日にサンタ・マリア号が座礁してしまう。しかし、その残骸を利用して要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入植地を作った。この入植地には50名の男が残った。
-年が明け、1493年1月6日にピンタ号と再び合流する。1月16日、スペインへの帰還を命じ、3月15日にパロス港へ帰還した。+年が明け、1月16日にはスペインへの帰還を命じ、3月15日にパロス港へ帰還した。
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== 栄光と挫折 == == 栄光と挫折 ==

2009年1月30日 (金) 00:37の版


誕生~アメリカ大陸発見まで

探検家・航海者として、大航海時代に名をはせた、クリストファー=コロンブス(Christopher Columbus)は、前半生については諸説あるため、不解明な部分が多い。通説では1451年、イタリアのジェノバに生まれ、毛織物業者に父を持ち、若いころから貿易商会で働き、20歳を超えたころから貿易船に乗り組むようになったとされている。エーゲ海、地中海と航海経験を積み、戦争に巻き込まれるという危険を機に、次第に一人前の航海士として成長を遂げていった。コロンブスは、ポルトガルのアフリカ西岸を南下する探検航海にも参加して体験を重ね、84年にアジア(当時インディアスと呼ばれる)への航海計画をポルトガル王へ売り込もうとしたが成功せず、修道士の紹介でスペイン国王にも謁見したが、なかなか許可を得られなかった。  一方、88年にはポルトガルでバルトロメウ・ディアスがついにアフリカの喜望峰を迂回することに成功し、次の航海では間違いなくインドに到達できることがほぼ明らかとなった。 そのころ、フィレンツェの学者であるトスカネリからも支持を受けていたコロンブスは、地球が球状であることを信じ、大西洋を西へ航海すればポルトガルの航海より早くインディアスに到達できると考えていた。しかし、くり返しスペインから航海計画を却下されたため、一旦はフランス(弟が雇われていたため)へ向かおうとする。しかし1492年に、スペインはグラナダをついに攻め落とし、財政上の余裕ができたため、スペイン王室はコロンブスに援助を与えることを決めた。ようやく彼の希望が聞き入れられることになって呼び戻され、1492年8月3日、3隻の船でパロス港を出港した。一旦カナリア群島に立ち寄ったが、9月8日から船団は陸影を全く見ない不安な航海を約1ヵ月も続けた。不安と忍耐は限界に達した船員たちによって、10月6日には小規模な暴動が起こり、船員たちはコロンブスに迫って「あと3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。ついに見張りが前方に陸の姿を見たのは、10月12日の午前2時頃だったという。  コロンブスが到達したのはバハマ諸島の中の一島で、彼はこれをサンサルバドル(聖なる救世主)島と名付けた。島に着くと、先住民たちは贈り物を持ってきて交歓したので、コロンブスはキリスト教を伝えるにふさわしい善良な人々だと考えた。また彼は、インディアスについたのだと信じたので、先住民たちをインディオ(英語ではインディアン)と呼ぶようになった。  その後、12月6日にはイスパニョーラ島を発見。24日にサンタ・マリア号が座礁してしまう。しかし、その残骸を利用して要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入植地を作った。この入植地には50名の男が残った。 年が明け、1月16日にはスペインへの帰還を命じ、3月15日にパロス港へ帰還した。

栄光と挫折

西へ航海してアジアへ到達したという知らせは、全ヨーロッパに衝撃を与え、彼は一躍スペインの英雄として輝かしい存在となった。彼の一生を通じて、この時が最も得意の絶頂であったといえる。新しい土地の副王兼総督という特権を与えられた彼は、同年9月25日に第二回目の航海に出発したが、この時は一攫千金を夢見た人々が殺到し、一回目とは違って船は17隻、乗員は1500人に達したという。11月にドミニカ島に到着したが、前回作った居留地に行ってみると現地人により破壊されており、残した人間は全て殺されていた。コロンブスはここを放棄して新しくイサベル植民地を築いた。彼はエスパニョーラ島にサントドミンゴを建設し、ここを基地として周辺に植民地化を進める。しかし、一度は発見された金鉱もすぐに鉱脈が尽きたため、参加者の不満が爆発し、同時に強制労働に狩り出された先住民の反乱も相次いで起こるようになった。実際にアジアであれば手に入るはずの黄金も香料もないまま、彼は反乱を起こした先住民たちを捕え、奴隷として96年に帰国した。  ところが98年には隣のポルトガルが派遣したヴァスコ=ダ=ガマがアフリカ南端を回ってインドのカリカットに到達、香料を持ち帰ってインド航路の開拓に成功する。  失意のコロンブスは同じ年第三回目の航海に出発したが、この航路の最中の1499年にアメリゴ=ヴェスプッチが南米東岸を航海して、ここがアジアではない新しい大陸であるという報告書を発表、のちにアメリカ大陸と命名されることになった。 コロンブスは4度目となる航海を企画するが、王からの援助は小型のボロ舟4隻というものであった。1502年に出航したが、イスパニョーラ島への寄港は禁じられており、6か月間のパナマ周辺の探検にまでこぎつけたが、最後は難破して救助され、1504年11月にスペインへ戻った。しかし1504年末には彼に信頼を寄せていたイサベル女王が死去し、スペイン王室はコロンブスに対してさらに冷淡になった。帰国後は、健康を害してアジアとは不遇のままスペインのバリャドリッドにて1506年5月20にその生涯を終えた。


参考文献

アメリカ史重要人物101 猿谷要/編 新書館


  人間科学大事典

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