田沼意次2

出典: Jinkawiki

(版間での差分)

2009年1月30日 (金) 01:54の版

田沼意次

 享保4年(1719年)意行の長男として生まれた。意行は紀伊徳川家に仕えており、8代将軍吉宗が江戸へ来る時に、紀州家から連れてこられた。異例の出世で有名な意次の出世は、15歳で次の将軍である家重の小姓となった時から始まった。その後も御側役、諸候、老中格へと上り詰めた。家重からの信頼は厚く、臨終にあたって家重は、子である家治に「意次は全人なり。ゆくゆく心を添えて召し仕わるべし」と残したとも言われているほどである。家治は積極的に政治に臨む将軍ではなかったことから、意次のような人物は必要であったのではないだろうか。その後も、家治の信頼を得て、遠江相良の城主となった。

 ところで、意次は賄賂政治を行ったとして悪名高い。米から金、まさに農業から商業へ政策転換したのがこの頃なのである。商業資本を積極的に利用し、幕府の財政を再建しようとしたため、座の新設や株仲間を奨励した。商品作物の生産により、豪農が現れると、関西一帯で木綿や菜種、たばこなどが栽培されるようになった。そして18世紀には関東地方へ広がり、全国へ拡大していった。豪農により、生産と商業の一本化が図られるようになった。これは近代化へ大きな意味をもつだろう。また、庶民の生活にあまり干渉せず、「田沼は賞のみ多く出し、罰が軽すぎる」と松平定信が避難した程、自由なものであったという。。

 政権を意識してからの意次は、将軍の信用を得て、大奥の勢力と手を結ぶなど足場を固めた。印旛沼・手賀沼の干拓、ロシアの貿易と蝦夷地開拓、長崎貿易の拡大、貨幣の新鋳などにも着手したが、浅間山の噴火や江戸大火などの天災や反対派の妨害によって挫折せざるを得ない政策が多かった。さらに、日照りが続いたせいで天明の飢饉がおこったことをきっかけに、庶民に不安がはしったのだ。 そして1784年、意次の息子である意知が殿中で斬りつけられる事件が起きた。しかし、江戸の人々は「親の因果が子に報いた」とはやし立てる始末であった。それをきっかけに意次は落ち目になり、その後の家治の死は決定的であった。



角川春樹 1984「日本史探訪13 幕藩体制の軌跡」角川書店 河合敦 2005「スーパービジュアル版 早わかり日本史」日本実業出版社 大石慎三郎 1998「江戸大名 知れば知るほど」実業之日本社 謝世輝 1990「新しい日本史の見方 なぜ日本の近代化は成功したか」文化新聞社


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