足利義教

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足利義教


出自 足利 義教(あしかが よしのり、応永元年6月14日(1394年7月12日) - 嘉吉元年6月24日(1441年7月12日)は、室町幕府第6代将軍(将軍職1428-1441年)。3代将軍足利義満の3男。母は安芸法眼の娘藤原慶子(ふじわらのよしこ)で4代将軍義持の同母弟。当初出家しており「義円」と呼ばれていたが、家督を継ぐにあたり還俗し「義宣(よしのぶ)」と称したものの、「世を偲ぶ」につながることから改名を決意し朝廷から贈られた「義敏」という名を蹴って「義教」と名乗った。

将軍就任までの流れ


足利幕府将軍の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って「義円」と名乗り青蓮院門跡となった。その後百五十三代天台座主となり、『天台開闢以来の逸材』と呼ばれ将来を嘱望されていた。

応永32年(1425年)、兄の4代将軍足利義持の子である5代将軍足利義量が急逝し、義持も正長元年(1428年)に重病に陥った。義持が後継者の指名を拒否したため、群臣達の評議のが行われた。結果、管領畠山満家の発案によって、石清水八幡宮でくじ引きを行い、義持の弟である梶井義承・大覚寺義昭・虎山永隆・義円の中から将軍を決めることになった。

1月17日、満家が石清水八幡宮でくじを引き、翌日の義持死亡後に開封され、義円が後継者に定まった。くじ引きに関しては、神を感じていた中世のことだから公正であったとする説、三宝院満済らが事前に仕組んだ不正であるとする説もある。このことから、6代将軍に就任した義教は、籤引き将軍と呼ばれるようになった。だがすぐには義教は承知せず、就任の際には斯波氏、畠山氏、細川氏から「将軍を抜きに勝手なことをしない」と証文をとった。

また神の意思による将軍就任であったためかなり専横的な将軍として政治を行っていた。


神裁政治 義教は所領の係争問題や神社の人事問題などが起こった際には審理をせず、「湯起請」やくじ引きといった神判を行わせた。これは神の権威によって重臣や公家などの衆議を退け、自らの独裁権力を確立するためであったとも、自らが「神意」によって室町殿になったという王権神授意識によるものであったともされる これらの裁断は主に境界問題や朝廷関連に限られ、守護人事や軍事面では神判は行わなかった。

参考文献山川出版社「詳説日本史研究」 [1]


  人間科学大事典

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