原子爆弾2
出典: Jinkawiki
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世界中の中で唯一原子爆弾が落とされた国日本。私たちはその国民として原子力爆弾の本当の怖さ、悲劇を感じていかなければならないように思い、原爆投下について調べてみようと思う。
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〈概要〉
1945年8月9日アメリカ軍は、広島に続いて長崎に原子爆弾を投下した。8月6日に投下された広島は、世界で初めての原子爆弾の被害を受けた。原爆は長崎に投下される予定はなく、広島に続いて福岡の小倉に投下される予定だった。
<なぜ長崎に投下されたのか?>
小倉に投下予定だった原爆が、長崎に投下された理由は、9日の小倉の天気がくもりだったからだ。くわしく説明すると、9日の上空の天気はくもりで全く空からは陸が見えなかった。そのため小倉から長崎に投下場所を変更した。 <太平洋戦争>1941(昭和16)年12月8日、日本はハワイの真珠湾を襲い太平洋戦争が始まった。1944(昭和19)年には、アメリカがサイパン島を占領して、基地として日本への空襲を行った。初め爆撃の対象は軍需施設や工場だったが、住宅地にまでおよんだ。翌年には東京や大阪などの日本の主要都市が空襲の対象になり、市街地の多くが焼け野原となった。1945年3月の東京大空襲では、大きな被害を出して、一夜で8万人以上の市民が犠牲になり、100万人が焼け出された。国内では、多くの男性が戦場に送られたために、高校や中学の生徒まで工場や農村で働かされた。軍需物資の生産が優先のため、食料品が不足して苦しい生活が続いた。空襲が激しくなると、小学生は両親のもとを離れて、農村に集団で疎開した。
<戦場・沖縄>
アメリカ軍が、東南アジア方面から日本にせまり、1945(昭和20)年3月、沖縄が戦場となった。大規模な地上戦が行われた沖縄本島の南側はほとんど焼きつくされた。沖縄の戦争の犠牲者は、沖縄県出身の兵士も含めて、当時の沖縄の人口の約4分の1に当たる 12万人以上にもなると推定されている。沖縄戦では、一般の住民や中等学校の男女生徒までもが、弾薬の運搬、負傷者の手当などに協力した。
<原爆の被害>
アメリカ軍はポツダム宣言を発表し、日本に無条件降伏を求めた。しかし、日本の対応が遅れ、アメリカは、8月6日、原子爆弾を世界ではじめて広島に投下した。9日、アメリカは、長崎にも原爆を投下した。原子爆弾は、高熱と爆風で多くの死者を出しただけでなく、放射線被害によって多くの人がのちに死亡したり、病気に悩ませられた。その被害はとても大きく、投下されてから数年以内に、広島市ではおよそ20万人以上、長崎市ではおよそ14万人以上の人々の命が奪われた。今でも正確な死傷者はわかっていない。
<終戦>
日本は原爆を広島、長崎に投下されてからやっとポツダム宣言を受け入れて、降伏することを決めた。8月15日、天皇は、降伏をラジオ放送で国民に知らせた。日本が降伏したことによって第二次世界大戦は終わった。満州事変から15年におよんだ中国との戦争も一緒に終わった。また、日本が占領した東南アジア諸国が日本から解放されただけでなく、朝鮮、台湾などの日本の植民地も解放された。
<原爆の影>
第2次世界大戦が終わったとはいえ、原爆の被害を受けた人々の傷は癒えません。むしろ原爆投下されるまでになぜ戦争を終わらせなかったのかと多くの人は思うでしょう。私もそう思う1人です。勝ち目のない戦争を続け多くの犠牲者を出したことはこれからも忘れてはいけない日本の失敗であったと思う。原爆が落ちてしまった過去は変えることはできない。だからせめてその歴史を風化させずに後世へと伝えていくべきだと感じる。そのためにも原爆の被害が目に見て実感できる原爆ドームや当時の市民たちが来ていた洋服の悲惨んさなどがわかる物などは原爆の影として大事にしていかなければならない。現在の中高生の修学旅行の多くは広島や長崎に行く傾向が見られる。そこで生の被害者の声を聞いたという私の友達も多い。そういう機会を大事にしこれからも伝えていく場気だと感じた。
参考文献
永井隆:長崎の鐘(サン パウロ/アルバ文庫,1995) 織井清吾著 原子爆弾は語り続ける ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%88%86