吉田東洋暗殺事件
出典: Jinkawiki
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吉田東洋暗殺 概要 文久2年4月8日、土佐藩参政として藩主の信仰の厚かった佐幕開国派の中心人物、吉田東洋が、攘夷倒幕を掲げる土佐勤王党の手によって暗殺された。この事件の背後には、単に思想上の対立だけでなく上士と下士の徹底した身分差別という土佐藩独自の国内問題もあり、これ以降、土佐内部では佐幕派と勤王派が激しい抗争を繰り返すようになるのである。 土佐藩の身分差別 土佐藩の武士階級には、激しい身分差別が存在した。もともと土佐は、領主であった長宗我部家が関が原の合戦に敗れて、山内家の支配地となった国でした。そのため長宗我部の遺臣は郷士として、藩士山内一豊に従ってきた上士と呼ばれる藩士から200年以上もの間人としての扱いを受けていなかったのである。実は吉田東洋の先祖も長宗我部の重臣であったが、たまたま山内一豊と同祖であったために当初から馬廻200石に召抱えられていたのである。 事件経過 その日吉田東洋は藩主山内豊範に頼山陽の日本外史を進行するため登城、本能寺の変のくだりを講義した。偶然とはいえ、織田信長が明智光秀に暗殺されるという話をした直後、自分が暗殺されるということになにか繋がりを感じることができる。講義後、宴が行われ、東洋は夜に城を退出する。こうした、5人の門弟が送ろうというのを断り、帰る途中刺客に襲われたのだ。刺客は土佐勤王党の3人であった。直心影流の達人であった東洋は、最初に切りかかってきた浪士を逆に切りつけるが、残る2人に背後から切られ、首をとられてしまう。3人は東洋の首を持ったまま逃げ去り、東洋の首は罪状をしたためた高札とともに城下の雁切橋にさらされたのである。 参考文献 幕末維新ガイド まるわかり日本史