応仁の乱
出典: Jinkawiki
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応仁の乱 1467年~1477年
結果 名目的には東軍の勝利と言われている。
起こり 応仁の乱は、1467年から始まるが、この乱のきっかけは、8代将軍・足利義政の妻である日野富子の息子への溺愛だった。まず、義政と富子の間に男の子がなかったことを理由に、義政の弟・足利義視が養子に迎えられ次期将軍に内定する。ところが、その翌年に義尚が生まれる。すると富子が自分の子供に将軍をやらせたいと思い、これにより戦争に突入する。争いは1467年5月、細川氏の東軍が将軍邸を奪還して、義政と義尚をかつぎだした。つまり山名方の西軍について始まった富子・義尚の親子ですが、1年後には細川方寝返る。そして翌年11月に義視が西軍入りしていく。
終わり 1467年乱のさなかに義尚が将軍に就任する。一説には、まず富子は敵対する西軍で最後まで残っていた畠山義就の軍勢に対して「金をやるから戦争をやめろ」と言い、戦争をやめさせる。また、大内政弘の軍勢には朝廷の官職を保障するという形で、手を引かせる。さらに「東軍の諸大名にはあたしが追撃するなと命令しておくから安心して帰りなさい」と言った。すると戦いはやみ、戦争は徐々に終わっていた。
簡単な流れ 応仁の乱はまず幕府官僚家であった畠山氏と斯波氏、両家の家督相続をめぐる争いが起こり、ついで8代将軍義政とその妻・日野富子がおす義尚と、義政の弟で養子の義視の家督相続が重なって起こった。富子は1468年、義視追討の詔を後土御門天皇からとりつけ、自分たちの正当性を主張。結局、細川方東軍は24カ国16万人、山名方西軍は20カ国11万人を動員。約10年にわたる戦争で京都の町を廃虚にしてしまったといわれている。この戦争が戦国時代のきっかけと言われている。
参考:まるわかり日本史