ヒトラー
出典: Jinkawiki
2009年1月30日 (金) 12:47の版
ユダヤ人大虐殺を施行したことでも有名なヒトラーは誰もが一度は耳にしたことがあるであろう有名な歴史上の人物である。そんなヒトラーはなぜ独裁者の地位につきあんなにもおおくのユダヤ人を迫害してきたのだろうか。
目次 |
概要
ヒトラーの青壮年期 オーストリア・ハンガリー帝国の税関吏の子として4月20日ブラウナウ(現オーストリア)に生まれる。若くして両親を失い、ウィーンで画家になろうとして失敗し、同市の公営施設を定宿として、絵を描いて売ったり、両親の遺産に頼ったりして生活した。その間に下層社会や大衆の心理について体験したことが、のちに政治活動をするうえで役だった。オーストリア・ハンガリー帝国内の民族闘争に巻き込まれてドイツ民族至上主義者となり、国際主義的なマルクス主義を憎み、ユダヤ人とスラブ民族を憎むようになった。オーストリアで兵役につくことを嫌って1913年春にドイツのミュンヘンに逃れ、第一次世界大戦が始まるとドイツ軍に志願兵として入隊し、とくに伝令兵として功をたてて一級鉄十字章を受けた。軍隊内の戦友愛や規律、団結の精神が人生の規範となるべきだと考えるようになった。ドイツ革命(1918~19)ののちにミュンヘンの軍隊内で、軍人のための政治思想講習会に出席して民族主義思想を固め、19年9月、ドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党、すなわちナチス)という国家主義と社会改良主義を結び付ける小党に入党した。
ナチス政党
彼は雄弁の才能をもっており、いつも演説会で聴衆を熱狂させた。そして精力的に宣伝活動を行って党の勢力を拡張し、1920年3月末には軍隊を退いて政治活動に専念した。21年7月には党内独裁者となり、軍部や保守派と結んで強大なドイツの再建、ベルサイユ条約の打破、民主共和制の打倒と独裁政治の確立、ユダヤ人排斥を説いたが、そのほかに中産階級の保護、社会政策の充実、民族共同体の樹立を訴えて、中産階級を中心とする国民各層の支持を確保し、大衆集会を頻繁に開いて党勢を急速に拡大した。彼は23年11月8日から9日にかけて、ミュンヘンで一揆(いっき)を起こした(ヒトラー一揆)。しかし、頼みとしていたバイエルン軍部と官僚の支持を得られずに失敗し、翌年12月20日までランツベルク獄中にいた。 出獄後、彼は党を再建し、合法運動によって民主共和制を内部から征服しようとした。『わが闘争』(1925~26)を出版して、東ヨーロッパを征服して生存圏を東方に大拡張するプランを示した。また党内のいろいろな傾向を巧みにまとめ上げて、国民の各階層、とくに中産階級の支持を確保し、30年9月の総選挙に大勝してナチスを第二党に躍進させた。彼は連立内閣への誘いを断ってナチスの独裁支配を要求し、32年春の大統領選挙では36.8%(1340万票)の支持を得たが、ヒンデンブルクに敗れた。しかし同年7月の総選挙ではナチスが37.3%を得て第一党となり、支配勢力各層の有力者が彼を支持するようになったので、33年1月30日、首相に任命された。彼は保守派と一般国民の支持の下に反対派を弾圧し、一党独裁体制を確立した(第三帝国)。
なぜヒトラーを支持する人々がいたのか
これは私自身ヒトラーについて学ぶときの最大の疑問であった。ユダヤ人迫害など悪い面ばかり目立ってしまうヒトラーを私なら支持しない。そう考えます。しかし当時のドイツの国民たちはヒトラーが行うことに疑問を抱かずに支持してきた。それはなぜなのでしょうか。初期のヒトラーは当時のドイツ国民から圧倒的な信頼と支持を受けていた。 実際、ヒトラーはクーデターとか非合法的に世論を完全無視する形でドイツを“乗っ取った”のではなく、いちおう合法的民主的手続きを経て首相に就任し、政権の座についたのである(1933年1月30日)。(※ 1934年8月、ヒトラーは大統領と首相を統合した「総統」職を新設して、自らそのポストにつき、国民投票で是非を問うた。賛成票は90%にのぼった)。 ドイツ国民の選挙で誕生した「ヒトラー政権」。ドイツ国民から圧倒的な信頼と支持を受けていた。政権を握ったヒトラーは、まずドイツ国民の暮らしを安定させた。彼が政権を手にした当時、ドイツは1929年に始まった世界経済恐慌に痛めつけられ、工業生産は30年前の水準にまで落ち、失業率も30%を越えていた。ヒトラーは、全くのマヒ状態にあったドイツ経済と600万人の失業者をかかえて、その政治をスタートさせなければならなかったのだ。だが、ヒトラーは就任わずか4年で、夢も希望もない不況下にあったドイツ経済を、活気満ち溢れた景況に一変させてしまった。他のヨーロッパ諸国では、数多くの失業者たちが1個のパンを求めてうめいていたとき、全ドイツ国民にパンと仕事と生き甲斐を提供したのである。ドイツ国内の失業者は影をひそめ、1940年にはその総生産力は世界の総生産力の11%に相当するまでに至った。ナチス・ドイツはアメリカに次いで世界第2位の経済大国にのしあがったのである。アドルフ・ヒトラー彼の経済政策によって、国内の失業者は影をひそめ、ナチス・ドイツはアメリカに次いで世界第2位の経済大国にのしあがった。このヒトラーの功績は奇跡的なものであった。なぜなら、このヒトラーの経済復興は、当時のあらゆる経済学の理論に反したやり方で成し遂げられたものだからだ。彼がその柱としたのは、専門の経済学者のアドバイスを無視しての、社会保障と福祉を中心にした、生産力の拡大と完全雇用をめざした失業抑制政策だった。当時、専門家たちがあまりにも無謀すぎると非難したこのヒトラーの経済政策は、しかし、40年後、世界の先端をいく経済学者J・K・ガルブレイスによって、「現代の経済政策を予見していた」と評価されている。 つまり第一次世界大戦後のドイツを立て直したスーパーヒーローなのだ。
参考文献
ヒトラーという男 ハラルト・シュテファン著 講談社
ヒトラーとヒトラー 谷喬夫著 講談社
ヒトラーの時代 大澤武男著 講談社学芸文庫
アドルフ・ヒトラー