オッペンハイマー
出典: Jinkawiki
2009年1月30日 (金) 16:47の版
J・ロバート・オッペンハイマー(John Robert Oppenheimer) 理論物理学者で“原爆の父”であるユダヤ系アメリカ人。稀に見る優秀な研究者、オーガナイザー、教育者そして科学官僚でもある。オッペンハイマーの生涯は、20世紀における戦争と政治がいかに科学を変えたかを物語ると同時に、科学とモラルの関係はいかにあるべきかを考えさせる。
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理論物理学者への軌跡
オッペンハイマーは裕福な家庭に育ち、ハーヴァード大学で教育を受ける。3年間在籍しただけで人文並びに科学部門において抜群の成績を修めた。1925年に卒業したあと、イギリスのケンブリッジ大学とドイツのゲッティンゲン大学にて物理学研究をつづけ、1929年にゲッティンゲン大学からPh.D.を得た。1927年、すでに優秀な理論物理学者として名声の高かったオッペンハイマーは、カリフォルニア大学のバークレー校とカリフォルニア工科大学で教えるためにアメリカにもどる。そして、1年もたたないうちにバークレーをアメリカにおける理論物理学の中心地とする。 オッペンハイマーは、文学、音楽、芸術を楽しみながら、物理学の研究に打ち込み充実した生活を送っていた。
原爆開発
1930年代の半ば、ヨーロッパにファシズムが台頭しアメリカに大恐慌がおこると、政治に深くかかわるようになる。共産党員ではなかったが、党に積極的に関わり、党が推進している運動、すなわち反人種差別、移民農業労働者の労働改善に参加するようになった。 1939年における核分裂の発見とヒットラーのポーランド侵入は、オッペンハイマーに科学と軍事を結合させることになる。陸軍工兵隊でマンハッタン計画の指揮官であったレスリー・R・グローヴス大佐は、1942年にオッペンハイマーをロスアラモス科学研究所の責任者に指名した。そこでの彼の役割は、世界大戦に武器としての原爆を開発することであった。 1945年8月6日という日に、核兵器として開発され成功した原爆が広島と長崎に投下された。日本は人類が今まで経験したことのない地獄のような、核兵器の破壊力を目の当たりにした。 シカゴの67人の科学者が、トルーマン大統領にあてた嘆願書(日本にあらかじめ警告し、それでも頑として降伏を拒否した場合以外は原爆を使用しないよう要請)が、ワシントンについたのは、グローヴス大佐の策略により大統領がポツダム会談へと出発した後だった。
反逆者疑惑とその後
1947年、オッペンハイマーはプリンストン高等学術研究所の責任者となる。同時に原子力委員会の委員長となり、アメリカの武器戦略における彼の影響力は絶大なものとなった。そして、その後5年以上にもわたって科学界における彼の権力は不動のものとなる。ソ連が原爆を完成したあと、オッペンハイマーは、アメリカはソ連と軍縮条約を締結するべきだと主張。さらに、“水爆の父”エドワード・テラーの主張する“水爆の開発”に反対するようトルーマン大統領に請願した。しかし、オッペンハイマーの権力と彼の科学者たちへの圧倒的な影響力に憤然としていたトルーマンは、彼の進言を拒否した。 オッペンハイマーは水爆開発に反対したため、また若いころに共産とに協力的であったという理由で、ソ連のスパイであるクラウス・ファックスの共犯者という疑惑がかけられた。国家機密を漏洩した反逆者として、1954年オッペンハイマーは原子力委員会の聴聞会で裁かれる。彼は1942年から1955年まで、徹底した監視を受けることとなった。しかし、国家の機密を漏洩したという決定的な証拠は見つからず、オッペンハイマーの潔白は判明されたが、彼は機密事項に関与する資格を永久にはく奪された。(1963年にフェルミ賞を授与し、彼の名誉を回復したその後も国家の機密事項に関する資格を取り戻すことはできなかった。) 一方、プリンストン高等技術研究所の責任者としては、病で辞任する1965年までその任にあたった。その後、1967年の死まで科学と教育に関する講演を世界の各地で行ったが、科学者にとって今日の世界で最も重要な議論である核兵器と軍拡競争については語られることはなかった。