ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

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2009年1月30日 (金) 16:52の版
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 +ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)は、日本の古き良き美しさを西欧に紹介し、また現代の日本人にもその認識・確認を求めた。『怪談』を著したことで有名。
 +== 出生から服部一三との出会いまで ==
 +ハーンは1850年6月27日ギリシャの西北方、イオニア諸島の中の一つレフカス島にアイルランド人でこの島に駐屯していた、英国陸軍の軍医チャールズ・ブッシュ・ハーンとギリシャ人の母ローザ・カシマチの次男として生まれた。
 +1853年、ハーン3歳の時に両親の離婚が事実上成立して、父方の大伯母に引き取られて英国で教育を受け、1869年ハーン19歳の時に、独立独歩の生活を求めて単身でアメリカに渡り、オハイオ州シンシナティで新聞記者となる。1877年にミシシッピ州ニューオーリンズに移り、新聞記者のかたわら翻訳や読書に時間を費やすことができた。1884年、34歳の時にニューオーリンズ百年記念博覧会が開催され、その会場で日本政府から派遣されていた服部一三に日本関係の事柄を細かに質問して服部を驚かすことになった。
 +== 日本での生活 ==
 +1890年、ハーン40歳の時にHarper’s Magazine詩の美術主任パットの勧めで画家ウェルドンとともにハーパー社の通信員として4月4日に来日した。ハーパー社へは紀行文「日本への冬の旅」を送ったが、ハーパー社の契約条件を不満に思い、契約を解約した。そこでハーンは、ニューオーリンズの博覧会で出会い、当時、文部省の普通学術局長をしていた服部一三の世話で松江中学に英語教師として赴任することになった。
 +松江の風土と人情が気に入ったハーンは、12月には教頭の西田仙太郎の媒酌で士族の娘である、小泉セツと結婚した。しかし、松江の冬は寒さに慣れていないハーンの体には厳しすぎた。そこで翌年11月、永住するつもりであった松江を離れ、熊本の第五高等学校に転任することになった。1894年11月に五高との契約が切れるのを機会に、「神戸クロニクル」紙の記者となって神戸に移り住み、そこでもっぱら以下のような作品の執筆に従事した。
 +・Glimpses of Unfamiliar Japan(1894)
 +・Kokoro(1896)
 +・Gleanings From Buddha Fields(1897)
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 +== 小泉八雲 ==
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 +1896年46歳の2月に帰化願いが許可されて、小泉八雲と改名した。かねてからの東京帝国大学学長・外山正一寄りの要請に従い、英文科の講師職の受諾に踏み切った。やがて「一片の紙きれ」で解任される1903年春まで教壇に立つことになった。その当時の教え子たちには厨川伯村、戸川秋骨、田部隆次、石川林四郎、小山内薫などがいた。
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 +1904年4月に早稲田大学文学部に出講することになり喜んでいたが、9月26日に狭心症の発作に襲われて息を引き取り、9月30日に仏式による葬儀が営まれた。
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 +== ハーンの作品に見る日本 ==
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 +敗戦後の日本においては、古き良き日本の代弁者であったハーンの運命は知れたものであった。明治の初期に来日して、日本名を名乗り、『怪談』を著した異国趣味の作家というレッテルを張られたハーンは、その作品の価値を否定され、その後、続々と現れた多くの海外の日本研究家たちによって、彼の書いた日本は、一場の夢にすぎないと否定し去られたのである。
 +しかし、良きことは良きこととして美しい言葉で語りかけようという、ハーンの強い意志に裏打ちされた作品を、日本の実態を伝えていないとして非難することは、的はずれの批判である。
 +ハーンの巧妙な語り口と美しい言葉図解の作品に接することによって、読者の心が浄化されることこそハーンの作品の持つ醍醐味と言える。
== 参考文献 == == 参考文献 ==
アメリカ史重要人物101 猿谷要/編 新書館 アメリカ史重要人物101 猿谷要/編 新書館

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ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)は、日本の古き良き美しさを西欧に紹介し、また現代の日本人にもその認識・確認を求めた。『怪談』を著したことで有名。


目次

出生から服部一三との出会いまで

ハーンは1850年6月27日ギリシャの西北方、イオニア諸島の中の一つレフカス島にアイルランド人でこの島に駐屯していた、英国陸軍の軍医チャールズ・ブッシュ・ハーンとギリシャ人の母ローザ・カシマチの次男として生まれた。 1853年、ハーン3歳の時に両親の離婚が事実上成立して、父方の大伯母に引き取られて英国で教育を受け、1869年ハーン19歳の時に、独立独歩の生活を求めて単身でアメリカに渡り、オハイオ州シンシナティで新聞記者となる。1877年にミシシッピ州ニューオーリンズに移り、新聞記者のかたわら翻訳や読書に時間を費やすことができた。1884年、34歳の時にニューオーリンズ百年記念博覧会が開催され、その会場で日本政府から派遣されていた服部一三に日本関係の事柄を細かに質問して服部を驚かすことになった。

日本での生活

1890年、ハーン40歳の時にHarper’s Magazine詩の美術主任パットの勧めで画家ウェルドンとともにハーパー社の通信員として4月4日に来日した。ハーパー社へは紀行文「日本への冬の旅」を送ったが、ハーパー社の契約条件を不満に思い、契約を解約した。そこでハーンは、ニューオーリンズの博覧会で出会い、当時、文部省の普通学術局長をしていた服部一三の世話で松江中学に英語教師として赴任することになった。 松江の風土と人情が気に入ったハーンは、12月には教頭の西田仙太郎の媒酌で士族の娘である、小泉セツと結婚した。しかし、松江の冬は寒さに慣れていないハーンの体には厳しすぎた。そこで翌年11月、永住するつもりであった松江を離れ、熊本の第五高等学校に転任することになった。1894年11月に五高との契約が切れるのを機会に、「神戸クロニクル」紙の記者となって神戸に移り住み、そこでもっぱら以下のような作品の執筆に従事した。 ・Glimpses of Unfamiliar Japan(1894) ・Kokoro(1896) ・Gleanings From Buddha Fields(1897)

小泉八雲

1896年46歳の2月に帰化願いが許可されて、小泉八雲と改名した。かねてからの東京帝国大学学長・外山正一寄りの要請に従い、英文科の講師職の受諾に踏み切った。やがて「一片の紙きれ」で解任される1903年春まで教壇に立つことになった。その当時の教え子たちには厨川伯村、戸川秋骨、田部隆次、石川林四郎、小山内薫などがいた。

1904年4月に早稲田大学文学部に出講することになり喜んでいたが、9月26日に狭心症の発作に襲われて息を引き取り、9月30日に仏式による葬儀が営まれた。

ハーンの作品に見る日本

敗戦後の日本においては、古き良き日本の代弁者であったハーンの運命は知れたものであった。明治の初期に来日して、日本名を名乗り、『怪談』を著した異国趣味の作家というレッテルを張られたハーンは、その作品の価値を否定され、その後、続々と現れた多くの海外の日本研究家たちによって、彼の書いた日本は、一場の夢にすぎないと否定し去られたのである。 しかし、良きことは良きこととして美しい言葉で語りかけようという、ハーンの強い意志に裏打ちされた作品を、日本の実態を伝えていないとして非難することは、的はずれの批判である。 ハーンの巧妙な語り口と美しい言葉図解の作品に接することによって、読者の心が浄化されることこそハーンの作品の持つ醍醐味と言える。

参考文献

アメリカ史重要人物101 猿谷要/編 新書館


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