古墳
出典: Jinkawiki
最新版
目次 |
古墳について
豪族の高塚式墳墓。3世紀後半~4世紀初頭に瀬戸内海沿岸から近畿にかけて発生。前期古墳は近畿中心に前方後円墳が多く、被葬者に司祭者的性格を残したが、中期古墳は巨大化して政治的・軍事的色彩を強めて、後期古墳は広く各地で群集墳が成立した。近畿以外では毛野(群馬・栃木)・吉備(岡山)・出雲(島根)・筑紫(福岡・佐賀)・日向(宮崎)に多い。近畿の古墳は7世紀には少数の八角形古墳が築かれるだけとなり、他の地方でも小円墳が残るだけとなった。前方後円墳消滅後の古墳を終末期古墳と呼ぶ。
古墳時代の全容
古墳は構築された年代から、3世紀中~4世紀の前期、5世紀の中期、6世紀~7世紀遺稿消滅するまでの後期と三期にわけられる。ただし、前期を3世紀中~後半の出現期と4世紀の前期の二期に、後期を6世紀の後期と7世紀以降消滅するまでの終末期の二期に、それぞれ細かく分けて、五期に区分することもある。
出現期の古墳は大和盆地南部の纏向遺跡群に代表される地域に多く発見されて、前期古墳もまた着ないを中心とする地域に多い。中期になると河内平野に巨大な前方後円墳群が現れて、後期になると全国各地でも古墳の造営が増加する一方で、群集墳と呼ばれる小型円墳が群集した形を示すものが増えてくる。
646年、「大化の薄葬令」と呼ばれる厚葬風習を禁止する法令がだされて、王権中枢の貴族にも細かく埋葬規定が決められていた。こういったためか、急速に大型古墳造営数は減り、仏教の普及による火葬風習(700年、僧道昭がはじめて火葬となった)の浸透によって、徐徐に古墳による埋葬形態を採用しない風潮となっていった。このため7世紀の終末期古墳は、畿内地方でも100基に満たないと考えられている。
古墳の変遷
古い時期ほど、前方部が長方形に近い形を示し、中期になると前方部の先端が撥状(はねかえす)または、八の字状に広がってくる。 日本で最も多い古墳は円墳である。
・高塚式古墳
丘陵を利用したり、盛土をしたりして墳丘を築いた古墳。盛土の表面は葺石でおおわれた。形によって円墳・方墳・上墳下方墳・前方後円墳・前方後方墳などがある。
前方後円墳
円形の墳丘の一端に方形の墳丘を連ねつづけさせた高塚式古墳。弥生後期にみられる突出部をもつ墳丘墓の発展したものであろうとされている。規模の点においては、日本の古墳の1~44位はすべて前方後円墳である。大和を中心に広まって、大和政権の国内統一と密接に関係している。
・箸墓古墳(はしはか)
奈良県桜井市にある最古の前方後円墳。全長276m、前期古墳の最大規模をもつ。被葬者は倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそほめのみこと)と伝える。
・応神天皇陵
大阪府羽曳野市誉田の古市古墳群の中心的存在。大仙陵古墳につぐ5世紀初頭の大前方後円墳。誉田御廟山古墳とも呼ばれる。二重濠で、墳丘全長418m、高さ36m。
・仁徳天皇陵
大阪府堺にあって、百舌鳥古墳群の中心で、古来から大仙陵古墳と呼ばれてきた。宮内庁は仁徳天皇陵に指定したが、学問的には問題がある。日本最大の前方後円墳で、5世紀頃に造られたもの。三重濠、墳丘全長486m、高さ35m、円筒埴輪だけでも2万本と推定される。近くには、10余の従属する小古墳がある。付近には履中天皇陵(陵山古墳、石津ヶ丘古墳)もある。
・浦間茶臼山古墳
岡山市浦間にある全長138mの前方後円墳。前期古墳としては中国地方最大である。
・造山古墳
岡山市高松町にある中期の前方後円墳で、墳丘全長360m。吉備の代表的な古墳で全国で第4位の規模。作山古墳も全長286mで第12位の大古墳。
・天神山古墳
群馬県太田市の前方後円墳。全長210mで東日本第1位(全国第27位)の大古墳。5世紀後半の毛野の大豪族の墓と推定されている。
・石塚山古墳
福岡県京都郡にある全長120mの前方後円墳。前期古墳としては九州地方最大で、筑紫と近畿との深い関係を示す。
・五色塚古墳
神戸市垂水区の前方後円墳。全長194mの中期古墳で、3段の墳丘と葺石や埴輪などを1975年に復元した。
・男挟穂塚古墳
宮崎県西都市の西都原古墳群の主墳。全長219mの中期の前方後円墳で、九州第1位(全国25位)。これと並ぶ女挟穂塚は全長175mである。
前方後方墳
両端(前方後円墳の円形部分が方形になった)ともに方形の古墳。出雲地方には特に多い。また西日本の前期古墳の大半は前方後円墳であったのに対して、東日本の初期の古墳は前方後方墳が多い。
・岡田山一号墳
鳥取県松江市の後期古墳で、全長27mの前方後方墳。出土した大刀の銘文に「額田部臣」の名があって漢字訓読みがあったことを示す。
参考・引用文献
「時代の流れが図解でわかる!早わかり古代史」 松尾 光 編著
「日本史B用語集」 山川出版社