種子島銃
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種子島銃
中国製銅銃の輸入は、すでに16世紀初頭に見られるが、ヨーロッパ製鉄銃の輸入はやはり、種子島銃を初めとすると見ていいだろう。その破壊力は強力であり、初めてこの銃の威力を見聞したときの日本人の記録である「鉄砲記」には「この物一発、銀山をくだくべく、鉄壁をうかつべし」とある。 この時伝来された種子島銃は2挺だったが、そのうち1挺は多数の僧兵を抱えていた荘園領主である紀伊国(和歌山県)・根来寺に伝えられ、中心的には堺の鍛冶師たちによって模造品の作成が成功した。やがて堺は、天下統一を狙う戦国大名たちに大量の種子島銃を販売する「死の商人」「死の職人」の町になった。もう1挺は、おそらく種子島の財産となっただろうが、やがて、その私蔵品のうち幾挺かは、将軍・足利義晴と管領・細川氏を通じて、近江国(滋賀県)・国友村の鍛冶師たちに伝えられて、織田氏・豊臣氏・徳川氏の兵器工場である国友鉄砲の起源を作った。
スポーツ番組などで、「熱戦の火蓋が切られました」という言葉がよく使われる。 「火蓋を切る」とか「火蓋が切られた」などは、ほぼ例外なく戦争やスポーツなどの戦いの幕開けの表現として常套句となっている。 この語源は種子島銃にある。当時の銃は火縄銃で銃身についている縄に火をつけ、それを火皿に盛った起爆薬(口薬)に点火し、弾を発射する仕掛けになっている。この銃の銃身には蓋があってその蓋を開けてから点火するようになっているわけである。その蓋を「火蓋」といった。「火蓋」を操作して初めて発射可能になるわけで、そこから戦闘開始をあらわす言葉となったわけである。
参考文献:家永三朗 黒羽清隆「新講 日本史」 三省堂