ケインズ
出典: Jinkawiki
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恵まれた家庭環境
ジョン=メイナード=ケインズは、1883年6月5日に、イギリスの大学町ケンブリッジ市のハーヴェイロード六番地にある、ヴィクトリア朝風の広い2軒続きの家で生まれる。 父のジョン=ネヴィル=ケインズはそのころ、ケンブリッジ大学の論理学と経済学の講師であり、また大学の行政管理者としても高い評価を受けていた。母フローレンス=エイダは、ベッドフォードのバニアン教会の説教師として令名高かった牧師の娘で、ケンブリッジ大学の最初の女子カレッジであるニューナムの初期の卒業生であった。のちにはケンブリッジ市の議員および初の女性市長をも勤め、また文筆面でも活躍した。 このように、ケインズは高度な知的環境の中で生を受ける。
イートン校のケインズ
ケインズが14歳の時、パブリック‐スクールの名門イートン校に入学。入学試験の成績は20人中10番であったが、数学は1番であった。 ケインズは1日に8,9時間勉強しないと満足せず、すべての科目で急速に素質を伸ばし、数々の賞を受賞。また、さまざまな優れた資質のために学友たちの尊敬を集め、イートンでの最後の年に、「ポップ」の名で知られるイートン‐ソサエティの一員に選ばれた。
官僚から経済学者へ
イートン校を卒業したケインズは、ケンブリッジ大学へ入学。文官試験を受けるが、成績は第2位で、成績第1位の者との間にはかなりの差があった。ケインズは大蔵省を希望していたが、成績第1位の者が選んだので、やむなくインド省へ行く。しかし、インド省での仕事に嫌気がさし、前から温めてきた「確率論」の研究に没頭するようになる。やがてケンブリッジ大学の経済学講師になろうと考え、論文を提出し、インド省を辞めて経済学講師になる。
第一次世界大戦とケインズ革命
第一次世界大戦中、D.ロイド=ジョージが大蔵大臣の時から顧問を務めていた者の補助者として大蔵省で働き始める。しかし、ドイツの賠償支払の遅滞問題によって辞職。その後、「平和の経済的帰結」というタイトルで本を出版し、自己の主張を訴える。 彼の理論はこの著を原点として「貨幣改革論」(1923)「雇用、利子、おとび貨幣の一般理論」(1936)へと発展していく。有効需要、乗数理論、流動性選好説を用いて新投資による非自発的失業の克服を示したその独創的な理論は、米国のニューディール政策、現在の各国の公共投資政策とも結びついて<ケインズ革命>ともいわれる大きな影響を及ぼしている。
参考資料:ケインズを学ぶ 根井雅弘/著
ケインズ 浅野栄一/著