アフガニスタン--タリバンの誕生の経緯--

出典: Jinkawiki

(版間での差分)

2009年6月17日 (水) 19:23の版

この項目では、タリバンという武装グループがアフガニスタンで生まれた経緯について扱う。

■アフガニスタン紛争(1978年-1989年)

 1979年、副首相であったハーフィズッラー・アミンがクーデターを起こし、新たな大統領に就任した。

 アミンは当初融和的な政策をとったが、後に宗教指導者に対して弾圧を加えるようになった。このためアミーンに対するジハードが宣言され、全土でムジャヒディンが蜂起した。人民民主党政権はアフガニスタン軍に対する大規模な粛清を行っていたため、鎮圧する能力を持たなかった。アミーンはアフガニスタン軍による収拾が困難であることを悟り、ソ連軍の介入を要請した。

 ソ連はムジャヒディン鎮圧のため、毎年50億ドル、総額450億ドル程をアフガニスタンに注ぎ込んだが、敗北した。

 米国はムジャヒディン支援にパキスタン経由で秘密裏に40~50億ドルを供与していた。サウジアラビアと他のイスラム諸国、欧州諸国を合わせた援助額も米国のそれに匹敵し、合わせてムジャヒディンは100億ドル以上の援助を受け取ったことになる。これらの援助の大部分は強力な近代兵器として与えられた。

 この紛争は150万人の死者を出し、アフガニスタンの国土を退廃させた。

■支援の優遇と不遇

 ギルザイ・パシュトゥン(アフガニスタン東部やカブール周辺)はCIAと西側の援助機関ルートで武器と資金や医療施設などの後方支援を受けたが、

 ドゥラニ・パシュトゥン(南部とカンダハル一帯)が受けた援助はそれよりはるかに少なかった。

 (現在でもタリバンの救急医療施設はまれで、前線近くに外科医はいない。この国で活動している医療施設は、赤十字国際委員会(ICRC)の病院だけである。)

■ソ連によるアミン殺害

 1979年、ソ連特殊部隊スペツナズはカブールのアミン大統領の官邸を襲撃、アミンを殺害しカブールを占領、後任にバブラク・カルマルを任命した。ソ連はアミンの政策を西側に寄るものだと見なし、ソ連の中央アジアにおける勢力圏を米国とイスラム主義勢力から防衛し、共産圏諸国へのソ連の国家的威信を維持しようとしていたためである。

 1988年4月の米・ソ・アフガン・パキスタン四国和平協定によって和平が成立、1989年2月までに全てのソ連軍が撤退した(援助は引き続き行っていた)。 しかし、ソ連が撤退した後も、ムジャヒディンとナジブラ政権との長い戦いが続く。

■ナジブラ政権終焉

 1992年、ナジブラ政権が打倒され、ムジャヒディンがカブールを占領。カブールを取ったのは、ブルハヌディン・ラバニとかれの軍事司令官アハマド・シャー・マスード率いるしっかり組織されたタジク人勢力とラシッド・ドスタム将軍の北部ウズベク人部隊だった。ペシャワルを本拠地にしているパシュトゥン人勢力(武装は良いが内部抗争が絶えない)ではなかったことが、その後の内戦の激化を決定づけた。

 パシュトゥン人が300年維持してきたカブールの支配権を失ったことの心理的打撃は深刻だった。ヘクマティアルがパシュトゥン人を集結しようとして、カブールに対し無差別砲撃を開始、内戦がたちまち再開した。

■1994年 タリバン出現

 アフガン軍閥は領地ごとに分裂し、すべての軍閥が同盟、裏切り、流血の中を動揺しながら戦っていた。

 もっとも有力だったラバニ大統領のタジク人政権がカブールとその周辺、国内北西部を支配。イスマイル・ハンはヘラートを中心とした西部3州を支配。東部パキスタン国境地帯のパシュトゥン3州は、ジャララバードを根拠とする軍司令官たちのシューラ(評議会)の支配下にあった。南部の小さな地域とカブールの東側はヘクマティアルが支配していた。北部のウズベク人軍閥ドスタム将軍は6州を支配していたが、1994年1月、カブールを攻撃するため、ラバニ政権との同盟を破棄してヘクマティアル派に加わった。中央部はハザラ人がバーミヤン州を支配していた。

 アフガニスタン南部とカンダハルは、何十もの旧ムジャヒディン軍閥や強盗集団の支配下に分かれていた。部族的構造、ぼろぼろの経済状況、パシュトゥン人たちの不一致、さらにはパキスタンがヘクマティアルに与えた軍事援助をドゥラニには渋ったため、南部のパシュトゥン人たちは互いに抗争していた。  武装グループたちの行いはあまりに非道であった。金になるものは何でも奪った。電話線を引きちぎり、木を切り倒し、工場や機械、道路用のローラーまでスクラップにしてパキスタン商人に売った。軍閥は住人を強制退去させて家々や農場を抑え、支持者たちの手に渡した。司令官たちは住民を思いのままに虐待し、バザールの商人から強奪し、街中で衝突しては銃撃戦を起こした。

 このため、新たな難民たちがカンダハルからパキスタンのクエッタへと脱出し始めた。


 ナジブラ政権と戦ったあと、故郷に戻りクエッタやカンダハルのマドラサで学び続けていたムジャヒディン達にとって、この状況は打破するべき大きな課題だった。彼らには何か強力で絶対的な存在と、力が必要だったのである。


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