カンダハル

出典: Jinkawiki

(版間での差分)

2009年6月17日 (水) 19:39の版

この項目では、アフガニスタン南部に位置する都市について扱う。

■概要

 アフガニスタン2番目の都市で、戦争前の1979年の人口は約25万人、今日の約2倍だった。古代カンダハルは紀元前500年まで遡ることができるが、隣村のムンディガク村には紀元前3000年前の青銅器時代から人が住んでおり、古代インダス文明の一部だった。カンダハルは東はボラン峠を越え、シンドそしてアラビア海へ、西はヘラートからイランへと続く古代貿易路の結び目に位置していたため、貿易商の町だった。この街はイランとインドを行き来する交易、美術・工芸品の通過点で、バザールは何世紀にもわたって有名だった。

■果樹園からケシ畑へ

 カンダハルは砂漠の中のオアシス都市で、果樹の豊かさでこの地域全体に知られている。ここのザクロは千年前に書かれたペルシャの医者の処方箋に記されていたし、全盛期にはデリーの英インド総督の食卓に供されていた。タリバンの全国制覇のための大きな資金源となったカンダハルのトラック運送業者たちがその仕事を始めたのは、前世紀にカンダハルの果物をデリーやカルカッタに運び出した時だった。

 果樹園は戦争前まで手入れが行き届いていたが、ソ連軍とムジャヒディンがたくさんの地雷を埋めたため、農民たちはパキスタンに逃れ、果樹園は放棄された。

 カンダハルは今や世界で最も多くの地雷が埋められた都市である。  平坦な地形にも関わらず、周辺の農業地帯を素早く支配したムジャヒディンにこうした果樹園や水路が隠れ場所を提供し、市内のソ連軍を孤立させた。ソ連軍はその報復に、数千本の果樹を切り倒し、水路を徹底的に破壊した。1990年以降、避難民たちが荒れ果てた果樹園に戻ってきた。かれらは生活の糧を得るために消しを育て、それがタリバンの重要な資金源となった。


20世紀末のアフガニスタン内戦では1994年8月にターリバーン最初期の占領地となり、ターリバーンの勢力拡大の物心両面の本拠として重要な地位を占める。ターリバーンがアフガニスタン・イスラム首長国(ターリバーン政権)を建国した際には、カンダハールには国家元首(首長/アミール・アル=ムウミニーン)であるムハンマド・オマルが常住するとともに、政権の最高指導機関である最高評議会が設置された。首都カーブルには政府機関が所在していたが、それらもカンダハールのオマルの承認なしにはいかなる政策も実行することができず、カンダハールはアフガニスタン・イスラム首長国の事実上の首都の感を呈した。

2001年のアメリカのアフガニスタン侵攻、北部同盟の大攻勢で首都カーブルが失われた後もカンダハールはターリバーン側の最後の拠点となり、12月6日の明け渡しまで激しい攻防戦が繰り広げられた。ターリバーンの撤退後、ターリバーンの残党による小規模な武力集団が周辺地域に広く展開した。ターリバーンに代わって、かつて同地域を支配したパシュトゥーン人の軍閥指導者グル・アーガー・シェールザイーがカンダハール州を掌握したが、タリバンの台頭を許した腐敗の温床が再現されることが、かえって懸念された。

2007年現在、アメリカに支援を受けたカルザイ大統領率いる新政府が、カンダハール市を完全に掌握している。現知事はアサッドラー・ハリド。


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