イスラム教3
出典: Jinkawiki
2009年8月2日 (日) 15:14の版
《イスラム教特徴と成り立ち》
まず、一神教である、ということ。只一つの神しか認めない。しかも、その神は人格神。山の神とか、火の神とか、太陽の神とか、そういう自然神とは全然違う。 こういう一神教の宗教は世界で三つだけである。ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教。ムハンマドが神がかりになったときに、相談したハディージャのいとこはキリスト教徒であった。また、ムハンマドがイスラム教の教義を確立したメディナの町はユダヤ教徒の住民がかなりいたところで、ムハンマドはかれらからも大きな影響を受けている。 つまり、イスラム教はユダヤ教、キリスト教の兄弟宗教で、一神教三兄弟の末っ子である。
イスラム教の唯一神をアッラーというが、アッラーというのは神様の名前ではない。アッラーというのはアラビア語で「神」という意味である。日本語で「神さま」というように、アラビア語で「アッラー」という。 では、神様の名前は何かというと、「ヤハウェ」である。キリスト教徒が信じているのと同じ神さまをイスラム教は信仰している。 イエスはユダヤ教を改革しようとした人物。だから、キリスト教の神さまはユダヤ教と同じ「ヤハウェ」であった。そして、その同じ神をイスラム教も信じている。 だから、人類はアダムとイブからはじまったとイスラム教徒も考えているのだ。
ムハンマドが神がかり状態になるときに、神の言葉を授かるが、神はずっと昔からムハンマド以外の人にも言葉を与えてきた。それが、「ノアの箱船」のノア、「出エジプト」のモーセなど、旧約聖書の登場人物たちである。ムハンマドはそれらの人物を預言者として認める。 さらに、イエス。かれも預言者の一人だった、とムハンマドは言う。 ただし、神はこれまでの預言者たちにすべてのことを伝えたわけではない。言い残した言葉がたくさんあったんだ、という。人間たちに言い残した言葉を伝えるために選ばれたのがムハンマドなのだ。
というわけで、イスラム教でのムハンマドの位置づけは「最後にして最大の預言者」。何しろ、神さま今まで言い残していたすべてをムハンマドにしゃべってしまったので、もう何も人類に伝えることはない。だから、ムハンマドは最後の預言者であるのだ。
また、イスラムという言葉だが、これは「神への帰依」という意味である。帰依というのは「深く信仰し、その教えに従う」という意味で、「イスラム教」という言い方はそのまま訳すと「神を信仰する宗教」という意味になる。
同様に、イスラム教徒のことを「ムスリム」という。意味は「神に帰依した人々」。
そして、イスラム教の聖典が「コーラン」である。 「コーラン」は神の言葉そのものであり、神がムハンマドの肉体を通じて語りかけたとされている。
《イスラム教徒の義務》 まず、「六信五行(ろくしんごぎょう)」という義務がある。
「六信」とはムスリムが信じなければならない六つのこと。 「神」「天使」「啓典」「預言者」「来世」「天命」。この六つ。 「啓典」は、「コーラン」のこと。ユダヤ教やキリスト教の教えを引き継いでいて、イスラムでも最後の審判はあって、人々は天国と地獄に振り分けられる。「来世」とはそういうことである。 「五行」は、ムスリムが行わなければならない五つのことです。 「信仰告白」「礼拝」「断食」「喜捨」「巡礼」の五つ。
「信仰告白」というのは、「アラーの他に神なし。ムハンマドはその使徒なり。」と唱えること。この「信仰告白」というのは、次の「礼拝」と一緒におこなわれる。
「礼拝」は正式には一日五回、メッカの方向を向いておこなう。 ムハンマドはイスラムの教義を作り上げていくときに礼拝の方向を決めた。はじめはイェルサレムに向かってとか、いろいろ試行錯誤するが、最終的にはメッカのカーバ神殿に向かって礼拝することにきめた。世界中のムスリムが礼拝の時間にはメッカのカーバ神殿に向かって拝むのである。
次に、「断食」。一年に一ヶ月断食月がある。ラマダーンと呼ばれる月である。これは、まったく何も食べないのではない。日の出から日没まで、太陽の出ている時間帯に食べ物を口にしない、というもの。日が沈んだら、食べてもよいのだ。 それから、「喜捨」。これは富めるものが貧しいものに財産をわけあたえること。イスラムは商人の倫理が根っこにあるから、まともな取引で儲けることはいいことなのだが、儲けっぱなしで、財産をため込むことを卑しいこととする。儲けたなら、それを貧しいものに施すことを勧める。
最後に、「巡礼」。これは、メッカに巡礼すること。一年に一回巡礼月があって世界中からイスラム教徒がメッカに集まってくる。
《服装における特徴》
イスラム教信者で女性は主に全身を服で覆って頭からすっぽりヴェールをかぶっている。肌はどこも露出していない。 ただ、これは極端な格好で、インドネシアやマレーシアでは女性もここまで肌を隠してはいない。せいぜい頭髪をスカーフで覆っているくらいである。
イスラムでは人間は弱いものだ、という発想がある。人間は意志が弱いという前提でイスラムの倫理は組み立てられている。夫婦の愛も永遠に続かないかもしれないという、非常に冷静な判断をはじめにしている。 同様に、男の理性は性欲に打ち勝てないかもしれない、という前提に立つ。 弱い男の理性を崩壊させないように、女は肌を隠す、ということらしい。 《参考文献》 片倉もとこ著『イスラームの日常世界』(岩波新書)