ヴント

出典: Jinkawiki

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2009年8月9日 (日) 13:33の版

ヴント概要

ヴントは、1832年、ドイツ南西部の小村にプロテスタントの牧師の息子としてこの世に生を受けました。1856年にハイデルベルク大学医学部を卒業します。その翌年1857年に、現在でいう非常勤講師である私講師という役職につきますが、大学からの給与はなく、収入源は講義を受ける学生の受講料のみでした。そういった状況だったので、経済的にはとても困窮した生活を送る事になります。足りない生活費を補う為に、ヴントは精力的に生理学などの教科書の執筆をして収入を得ました。

ヴントは、とても膨大な教科書・論文などの著作を生涯を賭けて執筆しており、その総量は5万3000ページにも及ぶという凄まじいものです。1858年から5年間、ヴントはヘルムホルツの助手を勤めたのですが、その職を辞める時に、辞めた理由について多くの流言が飛び交いました。そういった風評の中でも、アメリカのホールが活字にまでしてしまった噂として、ヴントの数学的能力に難があったためにヘルムホルツから遠ざけられ助手を辞めたという根拠の乏しい噂があります。この中傷めいたホールの文書には、ヴントも憤りを隠せなかったみたいです。

実際には、ヘルムホルツがヴントの学問上の能力に対して不満を持ち、嫌って遠ざけたというような事実はなく、就職推薦状などから推測するとヘルムホルツとの個人的な軋轢などが助手を辞めた原因なのではなく、“ヴントとヘルムホルツの研究内容の志向性の違い”が最大の理由であるように思えます。ヘルムホルツは、感覚(視覚・聴覚など)や無意識的推論などの分野を純粋に生理学的な方法で研究したのに対して、ヴントはあくまで心理学としての生理学に興味を持ち、生理学的技術を用いながらも人間の心や意識の体験を解明するための研究を進めたいと考えていたために、心理学に対する目的意識の違いが大きかったのだと思います。ヴントは医学や生理学ではなく、実験的な心理学をやりたかったのです。

ヘルムホルツの元を去った1862年からは、再び私講師として、ヘルバルトの『科学としての心理学』(1824-25)などをテキストに使用しながら、『自然科学から見た心理学』『生理学的心理学』『心理学』などの講義を行いました。ヘルバルトの『科学としての心理学』は、副題が「経験と形而上学と数学に新たに基づいて」であり、数学や力学といった自然科学的手法と経験主義を意識した著作で、ヴントの目指そうとする心理学の方向性に合ったものでした。

続く1873年にはヴントの最高傑作といわれる『生理学的心理学綱要』の前半部を出版して、高い評価を得て、1874年にはスイスのチューリッヒ大学の哲学講座・正教授の地位に就きました。チューリッヒ大学の正教授職には1年という短い期間しかいませんでしたが、1875年には、ライプツィヒ大学の哲学部教授として招聘されて、88歳で生涯を終えるまで過ごす事になるライプツィヒに向かいます。

哲学や生理学から心理学という学問分野が独立した年であり、ヴントの心理学実験室の使用で知られる1879年という年は、心理学実験室が完成した年ではなくて、この年の秋にヴント指導のゼミナール(演習)がカリキュラムに組み込まれて、ヴントのそれまで使っていた実験室が正式に授業で使用されるようになったと解釈するのが妥当なようです。(Bringmann et al, 1980;高橋, 1999)更に、1881年にヴントは、自らの心理学研究室の成果を掲載する為に、後に『心理学研究』になる『哲学研究』という専門的学術雑誌を発刊しました。

ヴントの目指した心理学は、代表的著作『生理学的心理学綱要』から推測できるように、生理学的手法を心理学に取り入れて、生理学と心理学の優れた面をそれぞれ実験心理学的な研究に活用しようとするものです。そういったヴントの心理学を『生理学的心理学(physiological psychology)』と言います。現在には、生理心理学という分野と英語表記では同じなのですが、ヴントの生理学的心理学の時代には、まだ脳波の測定や脳そのものの研究はなかったので、日本語では“生理学的心理学”と“生理心理学”を訳し分ける慣習があります。

ヴントの心理学で用いられる方法は、外部から刺激を与えて、“外部の反応”と“内部の経験”を色々な実験器具を用いたり、自分自身の心理的経験を反省して観察する(自分の心を自分で自己観察する)『内観法(introspection)』です。

内観法は、自分で自分の意識内容(経験)を言葉にして報告するものですが、ヴントは、自分だけにしか感覚できないような主観的で哲学的な自己観察については否定していました。ヴントの内観法は、生理学的な内観法であり、同じ刺激に対してはいつも同じ反応と報告ができるように、被験者が一定の訓練を必要とするようなものでした。

ヴントの心理学研究室には実験室が備えつけられ、自ら『実験心理学』を名乗るようになり、海外では従来の哲学的心理学と区別して『新心理学(new psychology)』とも呼ばれるようになりました。実験心理学は、大型の金属製装置を使うので、ヴントの心理学をアメリカで継いだティチナーの時代頃から『鉄と真鍮の心理学』と言われる事もあります。

ヴントは、オランダの生理学者ドンデルスの減算法による反応時間の研究を発展させたり、視覚の認知体系(認知→弁別→反応)を構想したりしました。また、ドイツの哲学者ライプニッツやヘルバルトも使用していた『統覚(apperception)』を、心理学の認知体系をとりまとめる心的過程として定義しようとしました。

また、ヴントは、内観法が適用できない分野があるという実験心理学の限界も理解していて、実験心理学とは異なる文化心理学ともいうべき『民族心理学(VOlkerpsychologie:独)』を体系的に作り上げようとしました。民族心理学の概念を初めて考えたのは、フンボルトだと言われていますが、フンボルトは、サピア―ウォーフの仮説(Sapir-Whorf hypothesis)という仮説を支持していました。その仮説は、異なる言語圏に属する民族は、異なる世界観を持っているとする文化を相対的なものとして見るような仮説です。実際の民族心理学の研究は、『民族心理学・言語学雑誌』(1860年)を創刊したラツァールスとシュタインタールによって始められました。

民族心理学に関する著作には、ヴントが晩年に書いた全10巻の大著『民族心理学』(1900-1920)があります。これは社会科学の領域に含まれるような広範な内容を含んでいて、言語、法律、社会、歴史、文化慣習、宗教、神話といった分野について深く触れられています。

ヴントの心理学は、アメリカを中心とした心理学の発展によって、後年『要素主義心理学』『構成心理学』と呼ばれるようにもなりましたが、ヴント自身は必ずしも生涯を通して心が要素から構成されていると考えていたわけではなく、上記のように認知をとりまとめる統覚のようなものを想定して全体的に機能するシステムとして捉えようとしていた面もあります。科学的な近代心理学の確立者・ヴントの研究は、心理学史研究者の間では今でも活発に進められているようです。

ヴントの学説

ヴントは、心理学は経験科学であるとし、形而上学を攻撃した。心理学は直接経験の学であると論じている。心理学と物的科学の差別は経験を眺める見地にあるのであって、扱う「経験」の定義そのものが違うのではないとした。そこでヴントは、心理学の研究法は自己観察(内観)にあるとした。しかし、彼は二元論者であり、精神と肉体は別物、並行して存在する物とした(精神物理的並行)。また、心理学の目標は、心を簡単に分析して、それらの質から成り立っている各種の形式を決定することであると述べた。つまり、自分の精神の内面を観察する内観という方法を用いて意識を観察・分析し、意識の要素と構成法則を明らかにしようとしたのだ。ゆえに、ヴントの心理学は要素主義と呼ばれる。さまざまな感覚(心的要素の働き)が統覚によって統合されるとした。

ヴントの残した足跡からの実験的方法は今日まで発展を続けているが、後の学派、ゲシュタルト心理学や行動主義心理学から反発を受けることになる。

また、ヴントはハイマン・シュタインタールやモーリツ・ラーツァルスと共に「民族心理学 [3]」を創始したとも評価されている。


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