ド・レペ
出典: Jinkawiki
生い立ち
ド・レペの誕生とその家系
1712年11月24日、フランスではルイ14世が栄華を誇っていた時代、ド・レペは父シャルル=フランソワ・レペ、母フランソワーズ=マルグリット・ヴァリニョン4番目の子としてヴェルサイユで生まれた。レペ家は裕福なブルジョワ家庭で、父シャルルは後に宮廷建築家となり、母フランソワーズは有力な建築請負業者の娘であった。ド・レペは生まれた2日後に洗礼を受け、名付け親には母方の叔父、ミシェル・ヴァリニョンがなり、洗礼名は父シャルルと名付け親ミシェルからもらって、シャルル=ミシェルと名づけられた。
パリへの転居と学生時代
1715年にルイ14世が亡くなって、レペ家の生活は変化を余儀なくされた。多くの人がヴェルサイユを去り、レペ家も20年ごろ引き払い、祖父の代から住んでいたパリに戻った。 ド・レペは8歳頃から学校に通うようになった。もちろん、当時学校に通えるのは恵まれた家庭の子どもたちだけであった。ド・レペが入った学校は「4ヵ国学院」という17世紀に創立の新しい学校であった。そこでド・レペは貴族的な教育を受け、中等教育の前期過程を終え、二年間の後期過程に進んだ。ド・レペは後期過程で哲学をはじめ論理学、倫理学、自然科学などを勉強した後、1730年、パリ大学法学部に入学した。大学に入学した翌年、ド・レペはジャンセニストとして神に仕えようと決心し、剃髪して聖職者となった。しかし、ド・レペはローマ教皇アレクサンデル7世が1657年に出した信仰宣誓文には署名しなかった。この信仰宣誓文はジャンセニストでないことを誓うもので、王命により信仰宣誓文に署名しない聖職者は職を解かれることになっていた。ジャンセニストの神父であることを願ったので、ド・レペは署名を拒否したのである。こうした事情もあって実際に教会での仕事に就くこともなく、そのまま大学での学生生活を続けた。その間、フランス法と「ローマ法大全」を研究して、1733年5月、法学士の資格を取得し、パリ大学を修了した。