承久の乱
出典: Jinkawiki
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概要
承久の乱(じょうきゅうのらん)とは、1221年(承久3)に、後鳥羽上皇が源氏の将軍が滅んだのをみて、北条氏を倒そうと鎌倉幕府に対して起こした朝廷との争乱のこと。承久の変、承久合戦ともいわれている。後鳥羽上皇は、畿内・西国の武士や大寺院の僧兵、北条氏勢力に反する東国武士の一部を率いて兵をあげる。幕府軍は、義時の子泰時(やすとき)、弟の時房(ときふさ)らの率いる軍を送り、京都を攻めた。1ヶ月の後、戦いは幕府の圧倒的な勝利に終わり、後鳥羽上皇は隠岐(島根県)に流された。
歴史的背景
三代将軍実朝が暗殺された後、幕府は執権である北条義時が実質的な中心となっていたが、空位となった将軍職に後鳥羽上皇の皇子を迎えようとし、院は幕府の要請を内約しながらも結局はそれを解消した。さらに、後鳥羽上皇の寵妃(ちょうき)伊賀局の所領摂津国長江・倉橋両荘の地頭職改補問題がかかわり、幕府と朝廷との対立は決定的となったのである。朝廷でも、幕府内の有力御家人の反乱などを見て幕府内部の内紛に乗じて幕府を顛覆させ、公家勢力の挽回をはかる絶好の機会と考え、後鳥羽上皇を中心として討幕の兵を挙げるにいたった。
内容
1221年(承久3年)5月14日、後鳥羽は「流鏑馬(やぶさめ)揃え」を口実に諸国の兵を集め、諸国の御家人、地頭らに北条義時追討の院宣を発する。親幕派の西園寺公経らの公家は拘束、備えとして関所を固め、京都守護伊賀光季は翌15日に滅ぼされた。
『愚管抄』によれば、鎌倉へ西園寺公経と伊賀光季からの上皇挙兵の報が19日に届くと、北条政子が御家人に対して演説を行い、義時を中心に御家人を結集させる。北条義時、泰時、時房、大江広元、三浦義村、安達景盛らによる軍議が開かれ、箱根・足柄で徹底抗戦をする慎重論に対し、広元は京都への積極的な出撃を主張。政子の裁断で出撃策が決定され、素早く兵を集め、5月22日には北条泰時と北条時房の軍勢を東海道(大将軍泰時、時房ら)、東山道(大将軍武田信光ら)、北陸道(大将軍北条朝時ら)の三方から京へ向けて派遣した。急な派兵であったため、東海道軍は当初18騎で鎌倉を出たが、徐々に兵力を増し、『愚管抄』によれば最終的には19万騎に膨れ上がったとされる。
6月には幕軍が美濃大井戸を突破して尾張川で宮方を撃破、後鳥羽は比叡山の僧兵らの協力を求めるが、さらに14日には宇治・瀬田において宮方が敗れ、翌15日に幕府軍が入京する。幕府軍が京都に乱入した時には上皇らは何らなす術もなく、御所にとじこもり、苦しまぎれに義時追討の宣旨を取り消し、討幕計画は謀臣のしわざであり、自分は何ら関知していないということを申し出る。朝廷方の主な武将はそのころにはそれぞれ自害し、また追捕(ついぶ)・斬首された。しかし、義時は争乱の首謀者が後鳥羽上皇であったことを重視し、きびしい処分で臨む方針を立て、その結果、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐にそれぞれ流され、これら三上皇のほかに、雅成(まさなり)親王は但馬、頼仁親王は備前に配流された。
乱後
乱後には総大将の泰時、時房らは京都に六波羅探題を設置し、朝廷の監視や御家人の統率を行った。新補地頭が大量に補任され、東国武士団の西国進出が進み、朝廷は京都守護に代り新たに設置された六波羅探題の監視を受けるようになり、皇位決定をも含む公家世界における鎌倉幕府の権力が強大化した。また、朝廷方公家・武士の所領3,000余カ所を没収し、これを幕府軍で活躍した武士たちに恩賞として与えたのである。このとき与えられた地頭職は、それまでの地頭(本補地頭)と区別して新補地頭の名で呼ばれた。
承久の乱により、朝廷と幕府の立場は一変した。幕府は朝廷を監視し、時には介入するようになり、朝廷は幕府に憚って国家の大事にも幕府に伺いを立てるようになった。また、西国で反幕府側の武家の多くの没収地を得、これを戦功があった御家人に大量に給付したため、執権北条氏と御家人との信頼関係が強固になり、鎌倉幕府の開府期に続いて多くの御家人が西国に移り住むこととなり、幕府の支配が畿内にも強く及ぶようになる。公家政権は急速に衰退していった。
参考文献・資料
日本の合戦 43号 北条政子と承久の乱(週刊 ビジュアル )
承久の乱 http://www.tabiken.com/history/doc/I/I304L100.HTM
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