金本位制

出典: Jinkawiki

2010年2月8日 (月) 11:30 の版; 最新版を表示
←前の版 | 次の版→

金本位制(きんほんいせい)

金を価値の基準(価値尺度)として、貨幣を発行する制度。

金本位制の歴史が最も古いのは産業革命の祖国であるイギリスで、1816年に純金113.00162グレーン(=7.3225049g)を含むゾウリン金貨を鋳造し、1ポンドとした時に始まる。1821年には金輸出を自由化して、国際金本位制にした。


兌換紙幣

金本位制度のもとで発行され、貨幣がいつでも金と交換できるという信頼のもとに成立する貨幣を兌換紙幣という。兌換紙幣は、何らかの原因で金と銀行券の交換保証が揺らぐと、確実な価値を求めていっせいに紙幣を金と交換しようとする取付け騒動が発生する危険を有している。

兌換紙幣の信頼が崩れる要因としては、①貨幣が金に比べて多く発行されるとき②金の価値が変動して、金に対する投機が生じたとき③金の埋蔵量(蓄積高)に不安が生まれるときなどがあり、このようなときに金の需要が急激に増大して対応できなくなり、取付け騒動が起きる。

日本の金本位制導入

明治維新以来日本の貨幣制度は幾多の変遷をかさねた。1885年の内閣制度発足以後いくつもの内閣で蔵相として財政再建にあたった松方正義はかねてから日本も早急に金銀本位制(実質には銀本位制)から本来の金本位制に移行すべきだと主張していた。そうしたときに、日本は日清戦争の勝利により清国から賠償金を受け取ることになった。ドイツがプロイセン・フランス戦争の賠償金を基金に金本位制を導入したことを熟知していた松方はこの賠償金に目をつけた。賠償金をめぐり、さまざまな要求が出て利害対立も激しかったが、松方は賠償金のほとんど大部分を金本位制移行に使用することにした。 金本位制にあてられた賠償金の純金重量換算は278t864kgで、プロイセン・フランス戦争のわずか5分の1にもみたなかったが、当時の日本としては大金であった。

ロンドンのイングランド銀行での英ポンド表示の小切手による賠償金の支払いは1895年~1898年の間に4回にわけて行われた。その期間中に第2次松方内閣が発足し、松方首相は蔵相を兼任し、賠償金のロンドンからの回送は「金塊又ハ金貨又ハ英貨」にするよう日本銀行総裁に通達した。その翌年の1897年には「貨幣法」が公布・施行され、施行日には、貨幣法の量目による新金貨(10円と20円)が本位貨幣として鋳造されていた。さらに翌1898年3月末までに新5円金貨も鋳造された。1円金貨は鋳造しても、重量・形態ともに小さすぎて、取り扱い上不便なので、こちらの方は50銭・20銭・10銭などの補助貨幣にまかせた。金ないしは金貨と兌換できるのは5円以上の日本銀行兌換券に限られていた。 


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成