ヘルベルト・フォン・カラヤン

出典: Jinkawiki

2011年1月31日 (月) 15:34 の版; 最新版を表示
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「帝王」と呼ばれたヘルベルト・フォン・カラヤンは音楽史上最も大きな成功を収めた指揮者である。恐らく一般的に見た場合、カラヤン程有名な指揮者はいない。クラシック音楽にあまり興味のない者でさえ彼を知る者は少なくない。「指揮者=カラヤン」というイメージはもはや世界的に浸透しているといって好いだろう。実際、カラヤンの録音の累計売上は1億枚を越えるとされる。100万枚が100点で漸く到達出来る数字だ。録音点数が大量に存在し、ロング・セラーが多いとはいえ、ミリオン・セラーとは殆ど縁のないクラシック音楽界でこの数字は驚異的と言えるだろう。ロックやポップスを含めてもビートルズやエルヴィス・プレスリーら数える程しかいない偉業なのだ。”カラヤン・ブランド”こそがクラシック音楽産業全体を支えていたと言っても過言ではない。

何故カラヤンがジャンルを超えた有名人に成ったのか。その最大の要因はカラヤンがメディアを非常に重視していた事だろう。それ以前の指揮者達は実演でこそ本領を発揮するタイプが圧倒的に多く、スタジオ録音で実力をフルに発揮する人は少なかった。尤も、19世紀生まれの巨匠達は片面が5分程度しか収録出来ないSP時代を経験しているし、LP普及当初はモノラル録音しか存在しなかった為、どうしても「一発撮り」が中心に成る。カラヤンも1930年代には録音を行っているから、貧弱な音質の不便な時代を知っているが、技術の向上に伴い、録音に修正を重ねて完璧に練り上げようとした。オペラ等も多くの指揮者は十全な歌い手が揃えられなくても、依頼があれば起用出来る歌手達で録音してしまうが、カラヤンは十全な歌い手が揃う迄録音を行わなかった。こうした録音への徹底的なこだわりが、オケの演奏技術に飛躍的進歩をもたらし、「オーディオ・レコード」時代の到来を齎したのである。CDにいち早く注目したのもカラヤンで、当時の最大収録時間74分は彼のベートーヴェンの「第九」が納まる様に設定されたのだという。映像にも関心を示し、兎に角常にメディアの最先端にいた指揮者であった。顔もニヒルな二枚目で、スターの条件を先天的に備えていた。例えるなら、19世紀の指揮者達は一期一会にかける舞台俳優で、カラヤンは納得いく迄撮り直す映画俳優だったといえよう。

しかし、どんなにメディアを利用しても、人々にアピールするものがなければ、カラヤンがあそこまで成功出来る筈がない。カラヤンの素晴らしさは徹底的に磨き上げた外面性にある。オケの響きもそうだが、テンポやダイナミックスも先ず外面的には申し分ない仕上がりと成っている事が殆どであった。

逆にそれらが多くの「アンチ・カラヤン」を増やした事も否定出来ない。高貴で不変の筈の芸術が、流行に翻弄される娯楽の一つに過ぎなくなったからだ。しかし、それこそがカラヤンの求めるものだったと思う。一部の人間に愛されるより、世界中の人々がもっと気楽に音楽を楽しめるようにしたいというのがカラヤンの願いだった筈だ。実際カラヤンは小澤に「指揮者は演奏するだけでなく、聴衆の耳も持たねばならない」という意味の事を語ったという。自分がどんなに好いと思っても、聴衆が好いと思わなければそれは単なるひとりよがりに過ぎないという事をカラヤンは言いたかったのだろう。

そして結果は予想以上の効果を齎した。カラヤンのクラシック音楽の大衆化は成功し、彼は指揮者の代名詞となった。恐らく19世紀の指揮者達では此処迄クラシック音楽の隆盛を齎す事は出来なかったであろう。彼はアーティストとしてよりエンターテイナーに徹したのである。

さて、私自身のカラヤンの演奏への感想だが、19世紀の指揮者を好む私にとっては、感心させられる事は多かったが、感動させられた事はない。尤も、19世紀の指揮者達にはない好さもある事は確かで、そうでなければ世界の頂点に君臨し続ける事など出来はしない。1950年代のカラヤンは颯爽として、力強さも充分にあった。フルトヴェングラーの重さに慣れきっていた人々にとって、それは新鮮だったに違いない。1960年代以降彼のスタイルはどんどん華麗に成っていく。1980年代に入ると、やや衰えを感じさせたが、流石と思わせるものは失わなかった。だからこそ、何だかんだ言って結構彼の演奏を聴いている。コンサートにも行った。ベームのコンサートを体験する事が出来なかった私にとって、その最大のライヴァルであるカラヤンのライヴを目の当たりにする事が出来たのは、生涯忘れ難い思い出である。 一方で、私の愛したフルトヴェングラー時代のベルリン・フィルの響きを払拭してしまった点は不満だ。勿論、そうしたおかげで世界のカラヤンに成れたのだが。彼がベルリン・フィルの音を作り変えた理由として、一つはフルトヴェングラー色を一掃したいという思いもあったであろうが、もう一つは、戦後のオケは機能性にものを言わせたアメリカ勢が世界的に高い評価を確立しつつあり、世界最高は欧州のオケでなければならないという危機感もあった筈だ。特に敗戦国ドイツ・オーストリアにとってはウィーン・フィルやベルリン・フィルが誇りであり、世界最高の座を戦勝国アメリカに譲る事は我慢がならなかったのかも知れない。それにはフルトヴェングラー時代のゲルマン的な響きではなく、アンサンブルの精度やオケの機能性を高める必要があったとも考えられるのだ。

その栄光に包まれたカラヤンの人生は、最後の最後に悲劇を迎える。手兵のベルリン・フィルの投票によって、彼は常任のポストを辞任する羽目に陥ったのである。恐らくこの精神的ダメージがカラヤンを死に追いやったのだろう。それから程なくして彼は世を去るのだから。音楽家としては優秀だったが、監督としてはいささかワンマンの度が過ぎたのが原因と言われている。自らオペラを演出しなければ気が済まない人だっただけに、納得出来る結末だが、80前後の老人に酷いな……と同情もした。そのカラヤンの推薦はチャイコフスキーやリヒャルト・シュトラウス、ヴェルディ、プッチーニらだ。外面を徹底的に磨き上げるカラヤンの長所が存分に発揮されているからである。 フルトヴェングラーも尊敬する指揮者のひとりだが、カラヤンには及ばないと僕は考える。


参考文献;中川右介 「カラヤンとフルトヴェングラー」


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