フランシスコ・ザビエル

出典: Jinkawiki

2011年2月4日 (金) 02:38 の版; 最新版を表示
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 1506年4月7日、ナバラ王国(スペイン北部の地方)の貴族の家に生まれる。幼少時に同国は隣国のカスティーリャに敗北して滅びるが、ザビエルはパリ大学に留学。27歳のときに優れた指導者イグナティウス・デ・ロヨラの感化を受け、34年、同志とともにモンマルトルの丘に集い誓約するところがあり、40年、ロヨラを初代総長とするイエズス会が公認される。これより先、ポルトガル国王は東インドにイエズス会の優れた人材を派遣することを望んだので、ザビエルが選ばれ、41年、彼はリスボンを離れ、モザンビーク島を経、インドのゴアに至った。

ローマ法王の使節、イエズス会の東インド管区長の資格をもって、彼はコモリン岬をはじめインド各地を巡り、さらに1545年から47年にかけて、マラッカからモルッカ諸島まで布教に従事した。その間、マラッカの教会で最初の日本人として鹿児島出身のヤジロウ(アンジロウ)らに会い、彼らの母国日本にキリシタン宗門を広める大いなる熱意を抱いた。

1549年(天文18)8月15日にザビエルは鹿児島に第一歩を印した。薩摩(さつま)(鹿児島県)、平戸(ひらど)(長崎県)を経、周防(すおう)山口(山口県)でも同僚フェルナンデス修道士らと伝道したのち、上京したが目的を達せず山口に戻り、領主大内義隆の保護を得て布教。ついで豊後府内の領主大友義鎖を帰依させ、平戸の松浦隆信の領内でも布教した 数々の珍奇な品を献上してその好意のもとに山口で布教した。ついで豊後(ぶんご)(大分県)にポルトガル船が入港したとの知らせでその地に移り、大友宗麟(そうりん)(義鎮(よししげ))に謁したのち、51年ひとまず離日してインドに帰った。52年中国布教を目指すが広州付近で死去した。




参考文献 「日本史B用語集」 全国歴史教育研究協議会 「聖フランシスコ・ザヴィエルの生涯」ラウレス著、松田毅一訳(1948・エンデルレ書店)

「ザヴィエル」吉田小五郎著(1959・吉川弘文館)


  


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