沖縄
出典: Jinkawiki
←前の版 | 次の版→
気候
年間平均気温が20度を超す沖縄は亜熱帯気候のとても暖かい所です。夏には日差しも強くまさに南の島独特の気候を満喫することができます。その一方、周りが海で囲まれていることもあり夏でも日中の最高気温が30度を大きく超えるようなことは少なく、日陰に入れば心地よい風が吹いてきます。あまり知られていませんが、実は夏場の最高気温は福岡や大阪などよりも低いんですよ。年中温暖な過ごしやすい気候ですね。
ところで常夏なイメージの強い沖縄。実は冬には最低気温が15度を切ることも珍しくなく、九州以北の冬に比べれば暖かいことは事実ですがその時期に海水浴をするのはやっぱり無理。「海を楽しめない旅行はちょっと・・・」と思われる方はやはり冬に沖縄旅行をするのはやめ、5月~10月の間に沖縄を訪れることをお勧めします。もちろん、冬の沖縄でもおいしい沖縄料理やのんびりとした沖縄の雰囲気は十分味わえますので海以外の楽しみはたくさんありますが。
そして夏に沖縄の海で泳ぐなら紫外線対策はとっても重要。「よーしっ、真っ黒に日焼けするぞっ」と意気込んでいるあなたも、夜には肌がひりひりして眠れないという悲しい結果に・・・。日焼けをしたくない人はもちろん、したい人も正しい紫外線対策に取り組みましょう。
歴史
1871年に全国で廃藩置県を実施した日本の明治政府は、1872年(明治5年)、琉球王国を強制廃止して琉球藩を設置した。これは琉球国を国家としてではなく令制国として扱うという形を取った物である。しかし清はこの日本の政策に反発、琉球は古来中華帝国に服属していたものとして、琉球の領有権を主張した。当時の東アジアの秩序は、中国・清王朝を中心とした、朝貢を基本とする華夷秩序によって形成されており、琉球も例外ではなかった。これに対し、日本は「万国公法」にある近代的な「国民国家」理論を適用し、「日清重属」であった琉球を取り込もうとした。 日本は琉球領有の正当化のため、台湾原住民による琉球人殺害(宮古島島民遭難事件)の報復として1874年(明治7年)に台湾出兵を行なった。戦後、清国と結ばれた条約により、琉球民のことを<日本国属民>と表記することによって、条約上、琉球が日本の版図であることを日清両国が承認する形となり、琉球処分を進める上で、日本に有利に解釈される結果となった。あくまで一国の形態を維持している琉球国(藩)にごうを煮やした日本政府は1879年(明治12年)4月4日に琉球処分を行い、日本の一県として廃藩置県を断行した。即ち、軍隊と警官を派遣して琉球藩の廃止を宣言し、鹿児島県に編入した。同年中に沖縄県を設置し、薩摩以前の宗主国である清国との関係を重視する王族士族の抵抗(サンシー事件など)を退けた。一部の抵抗者は清に亡命し、琉球回復の政治活動を行い、彼らは脱清人といわれた。しかし日本政府が最も危惧した清国の武力介入は結局行われず、琉球王国は中央集権的近代日本国家に組み入れられて消滅した。国王(藩主)であった尚泰は侯爵に叙せられ、東京への定住を命ぜられた。第二尚氏家系は現在も続いている。
清は、この動きに反発し、両国関係が緊張した。翌1880年(明治13年)、日本政府は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに先島諸島の割譲を提案した。清も一度は応じ、仮調印したが、李鴻章の反対によって妥結にはいたらず、琉球帰属問題も棚上げ状態になった。
最終的な領有権問題の解決は1894年(明治27年)の日清戦争後で、戦争に敗れた清は台湾を割譲、同時に琉球に対する日本の主権を認めざるを得なくなった。琉球処分以降の、中華民国の、尖閣諸島を含む沖縄諸島の認識は、日本領として正式に承認し、両国間では一応の決着がついていたことが判明している。その証拠として1920年に中華民国から日本の石垣村に送られた感謝状には『日本帝国沖縄県八重山郡尖閣諸島』という記載がある。また70年代頃まで中華民国で使われていた教科書や台湾の国防研究所と地学研究所が作成した地図でも尖閣諸島を日本領として明確に記載していた。現在でも、中華人民共和国は公式の場にて日本の沖縄に対しての領有権を認めており、日中共同声明で日中両国の主権及び領土保全の相互尊重を表明している。
一方で、第二次世界大戦後、台湾に渡った中華民国政府(国民政府)は沖縄返還協定が結ばれた際にプロセスに参加できなかったことを不服として琉球の本土復帰を承認しておらず、また日中国交正常化に伴って日本と断交したため、正式には日本の琉球領有権を認めていない状態にある。現在でも政府文書などで時折日本と琉球が別の色で表示されている事などがある。中華人民共和国に於いても、在野の学者が沖縄の領有を主張することが度々行われている。
これらの琉球藩設置から廃藩置県までの一連の流れを琉球処分と呼び、琉球藩設置を第一次琉球処分、廃藩置県を第二次琉球処分ということもある。
正式に日本の領土とされた沖縄県であるが、実情は世界に比べて法整備が遅れ、琉球時代旧来の体制が引き継がれることとなった。先島諸島の人頭税廃止を求める住民が宮古島で運動を起こしたことをきっかけに、沖縄県各地で旧制度廃止・改善をめぐる運動が起こった。運動は1890年代に県庁農業技師の謝花昇を中心に高揚し、県政の改善や参政権を要求した。この運動の成果かはわからないが、徴兵制、地租改正、市町村制、府県制、衆議院議員選挙法などが、概ね本土から10~25年遅れて施行した。
一方で日本政府による沖縄県の皇民化計画は、時局とともに強まっていった。1890年1月、天皇への崇敬心を養うことを目的に、琉球八社の中心であった波上宮を官幣小社に列した。これらの動きと並んで、沖縄各所にあった御獄(うたき)、拝所は村社として整理・統合され、拝殿や鳥居を設置し、神道の布教が実施された。これらの政策の一環として、1898年1月には徴兵令が施行された。
1920年(大正9年)に、南洋諸島が日本の委任統治になると、新天地を求めた住民が環境の似たこの地へこぞって移住した。また同時期に、ハワイやブラジルなどの中南米諸国へも多数が移民した。第一次世界大戦による戦争バブルが崩壊し、1930年代に世界恐慌による大不況と、全国規模の農産物の不作が発生すると一時的に飢饉となり、貧家ではソテツの実を毒抜きして食べたりもしたが、毒抜きが不十分で死んでしまうこともあり、「ソテツ地獄」と呼ばれる状況となった。この貧窮は、さらに出稼ぎを目的とした本土(特に大阪市大正区には、沖縄からの出稼ぎ労働者が多く移住してきたため、現在でもその一部とその子孫らが暮らしている)や南洋諸島、中南米への移民を促進することとなった。
戦前の沖縄本島には軌道系交通機関が存在した。明治時代末期に沖縄電気軌道が沖縄初の運輸営業を行う鉄道が開通したのを皮切りに、大正時代には沖縄本島に鉄道会社が4社にまで増加、営業路線も北は嘉手納、南は糸満、東は与那原まで拡大し、絶頂期を迎えた。しかし、昭和時代に入ると道路整備の発達により、新たにバス会社が参入すると、鉄道の輸送人員は減少し、1930年代後半に次々と廃業、さらに追い打ちをかけるように、沖縄戦によりレールなどの鉄道の全施設が破壊された。そして、戦後になっても2003年に沖縄都市モノレールが開通するまで復旧することなく消滅した。
伝統文化
○シーサー シーサーは沖縄の家や集落の守り神といわれている獅子像。中国から伝わり、最初に置かれた のは本島の東風平町。いろんな形があり、沖縄の顔として親しまれて.います。また風水とも関係 があり、数や方角には様々な意味が込められています。
<巨大シーサー> 2011年9月、那覇・牧志駅前のさいおんスクエアに全長3.4メートルの巨大シーサーが誕生。 壷屋焼陶工の手によるもので新しいシンボルとして夜はライトアップ。
○ガジュマルの樹
沖縄で有名なカ゜ジュマルの樹。一際目立つ大きなガジュマル
は、夜、月が満ちるととても幻想的な姿になり、昔からキジム ナーという赤い髪をした子供妖精が住むともいわれています。 また昔の沖縄の家には玄関というものがなく、家の目隠しとし てガジュマルの樹が植えられていました。ガジュマルは家と家、 また村と村との境界線でもあり、家や生活を守る御神木でもあ ったそうです。
工芸
○琉球ガラス
琉球ガラスは、戦後、空きビンを利用したガラス作りがその発祥。統治していた米軍関係者や
アメリカ人向けに作られました。材料が廃ビンのため茶色や水色といった空きビンの色が独特
の味をかもし出しすのが一番の魅力。現在では空きビンを利用しない作品や、ガラスに発砲剤
を入れて作る泡ガラスなどさまざまな作品があるものの、琉球ガラスの原点と魅力はあくまでも
リサイクル作品といえます。また琉球ガラス作家の第一人者は稲盛盛吉さん。「やちむんの里」
にて若いアーティストを育てながら創作活動をしています。
<琉球ガラスの国際化> 2003年前後より、琉球ガラスがベトナムなどに進出。その目的は、ガラス製作技術を現地に移 入することで新規産業化したり文化交流を促進すること。現在ではその動きが本格化し、ベトナ ムで作られている琉球ガラスは沖縄に逆輸入され、ホテルや街の土産物店で安く売られるまで になっています。 琉球ガラス村グループ(琉球ガラス工芸協業組合)
○やちむん 「やちむん」と呼ばれる沖縄の焼き物の発祥は15世紀頃。琉球王朝は各地の陶芸家を現在の 那覇市壷屋に集めやちむん作りを奨励したことで隆盛を高めました。また焼き物の工房が集 まる「やちむんの里」(読谷村)が有名。尚、やちむんの第一人者は人間国宝の金城次郎さん。
国際通り近くの壺屋町には那覇市立焼き物博物館があります。
○琉球漆器 14世紀から製造が始まり、中国や日本への貢ぎ物として発達。中国文化のモチーフが施され ていましたが、明治以降は沖縄の植物や風景をデザインしたものに変わっています。 尚、17世紀はじめには首里王府に漆器の製作所が設置。現代の民間産業としては、那覇の 若狭町が漆器の生産地となっていました。
沖縄空手
14世紀頃、中国の福建省から伝えられた拳法「唐手/トゥディ」と古来から琉球にあった拳法
「手/ティー」がひとつとなり進化、沖縄独自の武術として確立されました。その技法は門外不
出の時代もあり、50ほどある型の名称は全て福建省の方言。中国拳法の「白鶴拳」などが沖
縄空手に大きな影響を与えたといわれています。
また数多くの流派があり、代表的なのは小林流、上地流、剛柔流など。尚、唐手という言葉は
太平洋戦時中の外来語禁止措置によって「空手」になりました。
<琉球古武道>
元来、空手と古武道は合わせて学ぶのが一般的。琉球古武道の武器は農機具や日常で使う
道具から生まれたものが多く、江戸末期に刀が禁止された後、さまざまな武器がいっきに発達
しました。よく知られているものにヌンチャク、鉄甲、サイ、棒、トゥンファー、鎌などがあります。
その他
黒島の三味線名人
○沖縄三味線、島唄
沖縄三味線(三線・蛇皮線・さんしん)は中国の三弦(サンシェン) を起源とし、14世紀末期に琉球に伝来。日本の三味線の原型と いわれています。内地の三味線と比べ棹が短く弦は白色。蛇の 皮を張っているために音色も趣も異なります。尚、現在の蛇皮は 輸入物のアミメニシキヘビが多く使われています。 また島唄は沖縄民謡のことをいい、奄美民謡が「しまうた」と呼ば れていたことから沖縄しまうたと呼ばれるようになり、地域によっ て多種多様に分かれています。
○組踊 2010年、ユネスコ無形文化遺産に登録。琉球王国の時代に「踊・ 念仏・能・狂言」をアレンジして創られた伝統芸能。琉球音楽、琉 球舞踊、首里方言の台詞を使用するのが特徴で、舞踊劇、音楽 劇とも呼ばれています。
○旗頭 各地域のシンボルとしてデザインされた大きな旗を掲げながら練り 歩いたり、那覇まつりの日に行われる「那覇大綱挽き」などで活躍。 近年、その勇壮な姿が人気となり「旗頭が集まるイベント」も開かれ るようになりました。
○エイサー もともと旧盆の時期に祖先の霊を送迎するための踊り。今ではイ ベントなどで鑑賞する機会が急増。太鼓を使うスタイルが中心とな り、儀式より伝統芸能の色合いが強くなってきています。
○あんがま 石垣島や竹富島など八重山で行われている先祖供養の伝統行事。 一般的に旧盆の夜、若者たちがおじいとおばあの独特なお面をか ぶって仮装。集落を廻って、無病息災や家内安全などを祈願します。
○琉装 琉球王国時代の独特な服装は中国の影響を受けて確立。 男女ともに身分・階級に準じた服を装い、礼服から晴れ着・日常着 にいたるまで色や素材・柄などが明確に分けられていました。
○ハーリー 約600年前に中国から伝わった爬竜船の競漕。豊漁と海の安全を 祈願する大きなイベントとして那覇や糸満をはじめ沖縄各地で毎年 ゴールデンウィークに催され、ハーレーとも呼ばれています。
○沖縄のお墓 沖縄には本島中南部に多い「亀甲墓」や「破風型」「家型」といった 石室がある大規模なお墓が一般的。内地のような石柱型のお墓は あまりありません。これは中国文化の影響を受けた沖縄ならではの もの。他にも沖縄独特の葬送文化を育んできました。
<引用文献>
http://www.interq.or.jp/tokyo/ystation/okca.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%9C%AC%E5%B3%B6 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 http://www.interq.or.jp/tokyo/ystation/okca.html
リバー