ベトナム戦争12
出典: Jinkawiki
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・ベトナム戦争の始まり ベトナム戦争は、第二次世界大戦後の最も大規模で、長い期間行われていた戦争である。この戦争は、宣戦布告がなかった戦争であるため、いつ開始されたかについてははっきりしていない。南北ベトナムの統一戦争という観点からすると、南ベトナム解放民族戦線がベトナム共和国政府軍に対する武力攻撃を開始した1960年12月という説が一般的とされている。ベトナム戦争は別名「第二次インドシナ戦争」とも呼ばれている。 ベトナムはフランスの植民地であったが、日本が東南アジアに侵略し、1945年の日本の敗戦まで、日本の統治下にあった。日本の敗戦が決まった後、ホーチミンがバオダイ政権を倒し、ベトナム民主共和国(北ベトナム)を成立させた。ところが、フランスは南部の独立を認めず、バオダイを擁して南ベトナムを成立させたが、46年から戦争が開始された。54年にディエンビエンフーの闘いで、北ベトナムはフランス軍に致命的な傷害を与えて、前々から開かれていたジュネーブ会議で戦争が終結するものだと思われていた。しかし、バオダイとアメリカは協定を結ばず、アメリカは南への援助を開始し、アメリカ・ベトナム間で長い戦争が始まったのだ。
・ベトナム戦争の内容 1965年、アメリカは北ベトナム爆撃北爆を開始した。北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線は中ソの軍事援助を受けて、ベトナム平和協定により、73年アメリカ軍を撤退させた。そして75年にサイゴンは陥落し、76年ベトナム社会主義共和国が誕生した。ベトナム戦争は、アメリカにとって初めての敗戦となったのである。二度にわたる世界大戦を経て、圧倒的な強さを誇っていたアメリカは、ソ連という対抗相手がいても軍事的には圧倒していたし、ソ連側もアメリカと直接戦争をするという意志は持っていなかった。このように“世界をリードするアメリカ”“生産主義に対抗するアメリカ”という二つの役割が、南の国と国民を助けうという名目で長い戦争に突入させた。 1964年にはジョンソン新大統領は、ベトナムへの介入をますます強めて行った。南ベトナムで軍事クーデターが発生するとグエンカーン将軍が権力を握るようになり、その後、カーン将軍は大統領に就任する。8月2日にアメリカ軍駆逐艦マドックスと北ベトナムの哨戒艇がトンキン湾で交戦(トンキン湾事件)し、アメリカ軍は報復措置として北爆(ハノイへの航空機による爆撃)を行った。この事件が本格的なベトナム戦争へと突入していく原因となる。1965年、ジョンソン大統領はベトナムへの軍事介入をさらに強化した。この年は、北ベトナムへのローリングサンダー作戦をはじめとし、アメリカ海兵隊のダナン上陸、B52の南ベトナム解放区への爆撃、北爆の強化、また、南ベトナム解放戦線によって占領された南ベトナム領内への枯葉剤の散布など、ベトナム戦争は深刻化していった。1968年1月30日に南ベトナム解放戦線のテト攻勢が始まると、サイゴンのアメリカ大使館の一部が占領されていった。この頃から南ベトナム軍の勢いは衰えていく。
・戦争の終結
北と南の解放戦線は大きな犠牲を強いられたが、68年のテト攻勢などで果敢にアメリカ軍に対抗し続け、国際的な反戦運動の高揚などもあったことで、73年のベトナム和平協定でアメリカ軍撤退を実現させた。75年の北と解放戦線軍のサイゴン攻略で、南のベトナム共和国が崩壊したので、戦争は終結となった。
ベトナム戦争は情報戦でもあった。アメリカでもベトナムでも、戦争をしながらその時の光景を映像に残し、それを世界中に流していた。そのことが、世界の人々はベトナム戦争への認識を深めることにつながり、多くの人々が反戦運動に立ち上がったのだ。特に、アメリカが制作した映像は、決してアメリカの正当性を広めるようなものではなく、むしろその中のいくつかの映像が反戦気分を高める決定的なものになったと言えるだろう。
<参考> ・「山川 世界史小辞典」改訂新版 ・「ベトナム戦争略史」http://homepage1.nifty.com/Cafe_Saigon/03b8.htm
d.d25