ヴェトナム戦争1

出典: Jinkawiki

2013年8月6日 (火) 03:26 の版; 最新版を表示
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 ほぼ20年間(1955―1973年)にわたって、アメリカはヴェトナムでの共産主義支配を阻止しようとして、5万8000人のアメリカ人の命とおよそ200万人から300万人のヴェトナム人の命、そして600億ドルの戦費を失った上、封じ込め政策そのものへの支持を揺るがす国内的混乱を生み出した。南ヴェトナムで共産主義を封ず込めることに加えて、アメリカは(ヴェトナムでの)敗北が世界規模で軍事的コミットメントの信憑性を損ない、世界の他の地域での封じ込めの弱体化に繋がることを恐れた。ホー・チ・ミンの指導の下で、ヴェトナムは第二次世界大戦後の再植民地化を図るフランスと戦い、1954年にジュネーヴでの国際会議で、ハノイを首都とする共産主義の北ヴェトナムと、サイゴン(今日のホー・チ・ミン市)を首都とする非共産主義の南ヴェトナムに分割された。南ヴェトナムが北ヴェトナムの「祖国統一」の企てに反対して、ヴェトナム戦争は南北両政府間の内戦として始まった。アメリカの支援を得て、南ヴェトナムはジュネーヴで合意されていた再統一に関する国民投票をうまく阻止した。  共産主義政府の非共産主義政府に対する攻撃として、アメリカはこの紛争を冷戦の文脈で捉えた。もし南ヴェトナムが陥落すれば、東南アジアの他の非共産主義政府がドミノのように倒れることを、アメリカは危惧した。北ヴェトナム政府と南での協力者(民族解放戦線<あるいはNLF>。一般には「ヴェトコン」とアメリカに呼ばれた)は、独立と民族自決のためのフランスに対する闘争の延長として、この戦争を捉えていた。15年にわたる戦闘の後、1973年のパリ平和条約の調印によって、アメリカの直接的な関与は終わった。1975年にハノイが統一に成功するまで、南北ヴェトナムの戦争は続いた。だが、地域のドミノ倒しを引き起こすどころか、統一ヴェトナムはカンボジア、中国という共産主義の隣国と戦うことになった。ヴェトナム戦争が共産主義よりもナショナリズムや民族自決によるものだと、もしアメリカが正確に解釈していたならば、この紛争をバランス・オブ・パワーの観点からとらえ、ドミノよりもチェッカーの比喩を政策の指針として用いていたかもしれない。皮肉にも、ヴェトナムの共産主義政府とアメリカは、現在では良好な関係を保持している。


参考文献:国際紛争[原書第8版]理論と歴史/ジョセフ・S・ナイ・ジュニア、デイヴィット・A・ウェルチ 著


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