リビア
出典: Jinkawiki
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リビアは、北アフリカに位置する共和制国家。東にエジプト、南東にスーダン、南にチャドとニジェール、西にアルジェリア、北西にチュニジアと国境を接し、北は地中海に面し、海を隔てて旧宗教国のイタリアが存在する。首都はトリポリである。 アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟に加盟している。アラブ・マグレブ連合にも加盟しており、広義のマグリブ諸国にも含まれる。
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歴史
20世紀初頭の伊土戦争により、1911年にはイタリア王国がリビアを植民地化した。植民地後にはイタリア人が入植したが、サヌーシー教団のオマール・ムフタールやベルべル人による激しい抵抗が繰り広げられ、1926年からイタリアのロドルフォ・グラッツィアーニによる厳しい弾圧が行われたが、特にフェザーンでの抵抗は激しく、リビアの完全平定は1932年にまでもつれこんだ。 第二次世界大戦中には連合国と枢軸国の間で激戦が繰り広げられた(北アフリカ戦争)。イタリアの敗戦により、戦後は英仏の共同統治領とされた。 1949年の国際連合の決議により、1951年にキレナイカ首長国、トリポリタニア、フェッザーンの3州の連邦制によるリビア連合王国として独立した。キレナイカの首長であり、サヌーシー王国に即位した。1963年に連邦制は廃止され、リビア王国が成立した。 その後はイスラーム主義や社会主義やカダフィが著した「緑の書」に基つく国家を建設を目指し、対外的にはソ連に接近して援助を受けた。1970年代から1990年代まで数々のテロを支援したため、アメリカやイギリスなどの欧米諸国と敵対した。1985年に発生した西ヨーロッパでの一連のテロ事件により経済制裁を受け、1986年にはアメリカ軍によって空爆(リビア爆撃)されたが、その報復として1988年にパンナム機を爆破(パンアメリカン航空103便爆破事件)した。 2011年、カダフィ打倒を旗印にしたリビア国民評議会とカダフィ政権側の間での内戦が勃発。一時期はカダフィ政権側が評議会側の拠点だったベンガジ進攻寸前まで至ったが、NATO(北大西洋条約機構)を中心に、評議会側を軍事的に支援。同年8月23日に評議会軍が首都トリポリを制圧。10月20日にカダフィがスルトで射殺され、42年間続いたカダフィ政権は崩壊。
政治
カダフィ政権時代は人民主権に基つく直接民主制を宣言し、ジャマーヒリーヤと呼ばれる独特の政体をとり、成文憲法は存在せず、1977年に制定された人民主権確立宣言およびイスラム法が主要な法の源とされていた。また、政党も存在しなかった。現在の首相は、アリー・ゼイダーンで閣僚として、副首相・財務大臣・石油大臣・国防大臣などが置かれた。また、政党も設立できるようになり主要政党は、マフムード・ジブリール元暫定首相が設立した国民勢力連合、ムスリム同胞団系の公正建設党などがある。
治安
カダフィ政権時では、比較的治安が安定していたが、2011年リビア内戦以降は武器などが大量に出回り、急速に悪化傾向にある。新リビア政府は回収しているが過激派組織になどにも渡っており回収作業は難航している。2013年5月武装勢力が外務省などを包囲して、カダフィ前政権高官がまた政府内に留まっているとして、追放と内閣の交代などを追放させる法案を可決したが、国防相が一時辞意を表明するなど国内は不安定化している。また、カダフィ政権時と比べて殺人事件発生率が約5倍になっており、治安対策が急務である。
国際関係
カダフィ政権時代は反欧米、反イスラエルのアラブ最強硬派の国家であった。カダフィ政権崩壊後は、アメリカと関係を修復している。また、シリアにシリア国民評議会が設立されたときにいち早く承認し、その後のシリア国民連合もシリアにおける唯一の合法的な政府として承認している。現在シリア政府とは、国交を断行している。
(参考文献) ・福井英一郎編『アフリカ』(朝倉書店〈世界地理9〉2002年9月) ・宮治一雄『アフリカ現代史Ⅴ』(山川出版社〈世界現代史17〉2000年4月第2出版)
(参考サイト) ・Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/リビア
ハンドル名:KS