アイヌ民族の誕生
出典: Jinkawiki
『古事記』の中間には、ヤマトタケルの説話があって、それには、東の「まつろはぬひとども<服従しない人>」を平らげたとみえる。また『日本書紀』「神武天皇」のところを見ると、「えみしをひたり ももなひと ひとはいへとも たむかいもせす」という歌がある。歌の意味は、「えみし一人で百人に当たると人はいうけども抵抗もしない」というのだ。 おなじ『日本書紀』「景行天皇二十七年」のところで「蝦夷(えみし)」という漢字がはじめて出てくる。 同署では、ほかの箇所にもしばしば「蝦夷(えみし)」の語を見ることができる。中でも有名なのは、斉明天皇の時代で、阿部臣比羅夫が、アキタ、ヌシロ、ツガル、イブリエサなどの「えみし」を打ったという記事だ。 これらの歴史書に出てくる「えみし」や「まつろはぬとども」がはたしてアイヌの人々を指しているかどうかは現在なお議論が分かれている。そこに人種であるとか、異民族であるというような考え方を入れるべきではない。大和朝廷に服従しない人々、つまり対立数勢力が一方にあった。それが「えみし」であるというのだ。 しかし、この人々の中にアイヌの人々が含まれていることについては問題ないと考えられている。またたとえば地名では、ツキサラ、シシリコ、シリベジなど、また人名では、サニクナ、イカシマ、ウホナなどといった表記のようにアイヌ語ではないかと思われるものがある。なので、この時代にアイヌ語で読める地名を残した人々を「アイヌ語族」ということもある。 神武天皇やヤマトタケルの記事は伝説だが、『古事記』や『日本書紀』が書かれた8世紀初めごろの蝦夷に対するシサㇺ認識を反映しているともいえなくない。 これらのことから、少なくとも7~8世紀にはアイヌの人びととみられる存在が日本史に登場していいと思われる理由である。