核抑止論2
出典: Jinkawiki
核抑止論とは、互いに核兵器を保有することによって恐怖心を与え、他国からの先制攻撃を抑止するという理念のこと。 特に米ソは技術の進歩とともに原子爆弾からさらに威力の高い水素爆弾、爆撃機からミサイルへと、より性能の高い兵器の製造に力を入れた。また核保有国への不信感もあいまって、核軍拡競争が繰り広げられることになる。その結果両国は、全人類を破滅させられるほどの核兵器を保有することになった。
危険因子を逆手に取り、平和維持に有効なように評価されていたが、1962年のキューバ危機で、米ソは核戦争の手前まで近づいた。この危機の直後、両国はホットライン協定を結び、核戦争を避けるために首脳間での直接対話ができるようにした。1970年代になると両国は戦略兵器制限交渉(SALTⅠ・Ⅱ)を進め、核開発競争を互いに抑制することとした。
しかし核兵器反対運動もおこっていた。イギリスの思想家ラッセル、アメリカの物理学者アインシュタインは水素爆弾の脅威を世界に訴えかけ、核兵器廃絶のためにラッセル・アインシュタイン宣言を発表。湯川秀樹ら世界的な科学者がこれに署名、1957年にはカナダでパグウォッシュ会議が開催された。 日本では1954年の第五福竜丸事件をきっかけに広島と長崎の被爆の実態を世界に訴えるべく原水爆禁止運動を活発化させていった。
核の背景にある冷戦
核抑止論の背景には、米ソ両国とその同盟国間との、いわゆる冷戦が関わっている。 冷戦がいつ始まったかは定かではないが、普通は1947年初めからとされている。しかし、第二次世界大戦末期から米ソの対立は生じていた。冷戦には、米ソの体制の違いが生み出す不信感がはたらいていたのと同時に、国力を増大させた二国間の抗争という面があった。
大戦後、「代理戦争」と呼ばれる戦争が勃発したのも特徴的だ。代理戦争とは、戦争を仕掛ける国同士が直接対戦するのではなく、他の国の背後にまわり、その国を身代りに間接的に戦争をすることである。朝鮮戦争や1960年代のアメリカのベトナム介入、1979年に始まるソ連のアフガニスタン介入の際にも、代理戦争的な性格が表れた。 米ソが直接対峙したのは、1948年のベルリン危機、上記のキューバ危機でだけである。
冷戦終了は1989年のマルタ島での米ソ首脳会談、あるいは1990年末の全欧安保協力会議での軍備削減の合意の時点ともいえる。ソ連の疲弊と、体制の欠点の出現による崩壊が抗争の原因をほぼ消滅させ、ソ連の力の弱体化が長い冷戦を終結させた理由ともいえよう。
参考文献
2009年「政治・経済」東京書籍
高坂生堯 1995年「平和と危機の構造 ポスト冷戦の国際政治」日本放送出版協会
HN:羊一