紛争
出典: Jinkawiki
紛争(ふんそう、英:conflict dispute)とは、揉め事や争い事全般を示す極めて広義な言葉である。
裁判や経済的な紛争も存在するが、ニュースや新聞などで主に見聞きする紛争とは武力紛争(英:armed conflict)であり、国際社会学の点からも本項では武力紛争について説明するものとする。
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■紛争の分類
紛争とは前述の通りとても広い意味での「争いごと、揉め事」であり、その中には戦争や内戦、武力闘争なども含まれる。
また紛争と戦争は明確には定義として分類されておらず、日本のマスメディアや政府見解、論文でも「〇〇紛争」や「〇〇戦争」といった名称に区分けがされていないことが多い。
ただ発生した紛争が比較的小規模な武力闘争であった場合「〜紛争」と呼ばれることが多い。ただしその中にもボスニア・ヘルツェゴビナ紛争やエチオピア・リトアニア紛争などの大規模な武力紛争にも紛争と使われているため、明確な基準が定められているわけではない。
以下は紛争の中でも戦争と内戦の違いについて記述した。
・戦争
戦争は、国家間の対立によって発生する、国家の軍事力を用いた武力戦闘行為である。
・内戦
内戦は同一国内ないしや国家同士ではない闘争行為を指すが、戦争が国対国の戦闘行為に対し、内戦は国対国内民族、民族対民族、民族対宗教組織などが内戦にあたる。
また武力紛争にも分類がありアメリカ軍では紛争を強度によって定義化し、それぞれに対しての戦略を立てている。
分類としては以下の3段階となる
・高強度紛争
核戦争や第一次、第二次大戦レベルの世界的全面戦争
・中強度紛争
イラン・イラク戦争やフォークランド紛争などの地域紛争
・定強度紛争(Low intensity conflict, LIC)
主に第三世界における「通常の戦争よりも小規模であるが、国家間の日常的で平和的な競争関係よりも過激な、対立する国家や集団間における政治的・軍事的紛争」をさし、ゲリラ活動やテロ行為があたる。
■21世紀における紛争
21世紀に入って20世紀から継続している紛争もあるがその中でも21世紀に起
イラク戦争
イラク戦争は、アメリカ合衆国が主体となり2003年3月20日から、イギリス、オーストリアなどが加わる有志連合によってイラク武装解除問題の進展義務違反を「イラクの自由作戦」の名の下、イラクへ侵攻したことで始まった軍事介入である。
正規軍の戦闘は2003年中に終了し、同年5月にジョージ・W・ブッシュにより「大規模戦闘終結宣言」が出たが、イラク国内での混乱や治安悪化が問題となりイラク国内で戦闘が続行した。2010年8月31日にバラク・オバマにより改めて「戦闘終結宣言」がなされ、翌日から米軍撤退後の治安に向けた「新しい夜明け作戦」が始まった。2011年12月14日米軍の完全撤退によってイラク戦争の完全な終結が正式に宣言された。
名称
戦争の名称には戦場の国名や地名を使うことがあり、この慣例から「イラク戦争」が一般的となっているが、イラク戦争という名称はアメリカの立場からイラクを敵視する一方的な態度であるという意見もある。また戦争に至った経緯から「第二次湾岸戦争」と称する場合もある。
また終了宣言はジョージ・ブッシュが2003年に宣言した後、バラク・オバマが2011年に改めてしているため、どちらを終結とするかでイラク戦争の定義自体に混乱が生じている。
戦争までの経緯
1991年の湾岸戦争後にイラクが受諾した停戦決議において、イラクに大量破壊兵器の不保持が義務付けられ、その達成確認に国連はUNSCOM(国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会)を設置した。イラク側もこれを受け入れ1998年までは大きな混乱はなく進んだ。しかしUNSCOMは従来の事前通告式から抜きうち型に査定を変更した結果、イラク側はUNSCOMの査定に非協力的となった。
またアメリカは国際連合安全保障理事会決議668を根拠にイラク北部に飛行禁止区域を設定し、1992年にはフランス、イギリスと協調してイラク南部にも飛行禁止区域を設定する。これに反発したイランは地対空ミサイルや軍用機などの配備や意図的な空域侵犯を行った。このため制裁措置として米英はイラク軍施設に対し攻撃を繰り返した。
1998年にUNSCOMは「イラクにはミサイルと核兵器は確認できない上、化学兵器もほぼないと考えても良いが、生物兵器は疑問である」と報告を行った。同年12月空爆やイラク政府の非協力によりUNSCOMの査定活動は停止した。 1999年12月には上述組織に代わりUNMOVIC(国際連合監視検証査察委員会)を設置するという国際連合安全保障理事会決議1284がなされたがロシア、フランス、中国が棄権しており、イラクも受け入れを拒否している。
2001年
2001年に大統領に就任したジョージ・W・ブッシュは査定に対するイラクの非協力的姿勢を問題視していた。この頃から国連主導のイラクに対する経済制裁に緩みが発生し、イラクは密貿易によって資金を調達しているとの観測から英米での反イラク思想が高まっていた。
6月、アメリカとイギリウは同年11月に期限が切れる経済政策の延長代替案を提出したがロシアの強硬な反対により、従来の経済制裁案が継続されることとなった。
9月11日アメリカ同時多発テロが発生。世界でテロに対する非難や哀悼の意が示される中、イラン国営放送のコメンテーターがアメリカに対し誹謗的な論評をする。この報道はイランに対するアメリカ側の心象を悪化させたものの、テロ後一ヶ月はイラン政府のテロへの関与は否定的な見解を示していた。しかしアメリカ政府内ではイラク政権の完全な武力征伐が安定への最善の方法であるという見解が強まって行く。
2002年
ブッシュ大統領は一般教書演説において悪の枢軸国発言を行う。
一方以前よりフセイン政権と対立していたイスラエルがイラクの脅威を訴えたのを皮切りに、イラクへの早期攻撃を求め始める。
11月、国連ではイラクに武装解除遵守の最後の機会を与えるとする国際連合安全保障理事会決議1441を採択する。これに対しイラクは避難したが査定の受け入れを容認する。
2003年
1月9日UNMOVICは安全保障理事会に調査結果の中間報告を行った。この中でイラクの大量破壊兵器保持の決定的な証拠は発見されてないが「非常に多くの疑問点」や「矛盾」があると報告している。また調査に対してイラク側が非協力的な姿勢を見せていることも判明する。
さらにミサイルや生物兵器・化学兵器の情報に虚偽が含まれていることも判明する。
3月7日UNMOVICは二度目の中間報告を行ったが、アメリカは不十分だとし攻撃に関する決議採択を行おうとしたが、フランスは査定延長を求めた。攻撃に関する決議採択は決議秘訣となる可能性が高くなったため、アメリカイギリスは決議なしで攻撃に不切ることにした。
開戦理由
いかが米英が公式に主張した開戦理由<p>
・ イラクは大量破壊兵器の保有を過去公言し、暑現実もその保有の可能性が世界の安保環境を脅かしている。
・ 独裁者サッダーム・フセインが国内でクルド人を弾圧するなど多くの圧政を行っている
・ 度重なる査定妨害によって、湾岸戦争の停戦決議である国連安保理決議687が破られている。
・ 国際連合安全保障理事会決議にて最終通告がされていた
・ フセインとアルカイーダが協力関係にある可能性がある
イラク戦争の特徴
イラク戦争の特徴としてあげられるのは約10年前の湾岸戦争と比較して戦争の変化そして戦後処理についてだと感じる。 戦争の変化についてだが1991年の湾岸戦争に投入された戦力が66万人であるのに対し26万3千と非常に少ないことがわかる。これは湾岸戦争後まで提唱されていた「圧倒的な兵力で短時間に勝利する」ものとは対照的であった。しかし実際には3月20日に開戦し、その翌日には制空権を奪取、一ヶ月強で全土を攻略するという凄まじい速度で攻略は終わる。この迅速な攻略の裏には軍事のIT化がある。実際戦闘の開始先頭における航空機からのピンポイント爆撃をはじめとした巡洋艦からの巡航ミサイルが成功したのは航空機に搭載されたGPSや巡洋艦に設置されたGPS誘導爆撃、レーザーポインターを活用したレーザー誘導爆撃、また武装プレデターや無人攻撃機などの活用が要因として大きくある。同様にこの軍事的成功はC4ISR化(指揮・統制・監視・偵察のIT化とコンピュータ化)を一層進める誘因となり、RMA(軍事革命)という考え方が台等した原因となった。<dr> 少数の兵力で圧倒的攻略速度を誇った戦術は輝かしい成功を収めたが、それに対し問題となったのは占領政策である。<dr> 敵の兵力を排除することのみを念頭に置く戦争と異なり、占領時にはインフラ復旧や治安の確保、食糧の配給など様々な活動があり、兵士の数が不足するという問題が浮上した。そのため占領政策に遅れが発生し、結果イラク国民の反発を招き、さらに治安の悪化が進み、より兵士が足りなくなるといった悪循環が発生した。
また進行当時は抵抗しなかった旧イラク軍だったが小型兵器を隠し持ち米軍に対するレジスタンス攻撃行い始める。これは湾岸戦争終結時から計画されたいたことで経済制裁中の限られた材料で爆弾を製造する方法なども情報機関や軍で研究され、攻撃を受けている間は地下に潜り、攻撃終了後に攻撃を仕掛けてきたと考えられている。米英軍は占領時にこれらの自体を全く予測しておらず結果として戦闘終結後に大量の死者を出す結果となってしまった。
シリア内戦
シリア内戦はシリアで2011年1月26日より始まり、現在も続く反政府運動と反体制派による武力衝突である。国際連合などにより事実上の内戦状態と認識していることにより「シリア内戦」の名称がメディア等では多く使われているが、ISなど勢力範囲が国内外にも広がっており、武力組織の影響も強いため名称には議論がある。シリア内戦、シリア騒乱、シリア危機などの名称もある。
上記の通り「内戦」と呼ばれることが多いため。シリア国民同士の紛争と思われがちであるが、実際のところシリア国外からの参戦勢力も多く、当初アサド政権派のシリア軍と反政権派勢力の民兵との衝突が主たるものだった内戦がイスラム教ジハード主義勢力のアル=ヌスラ戦線とシリア北部のクルド人勢力の間でも武力衝突が起こっている。
現在は反政府主義勢力間での戦闘、さらに過激派組織ISILやアル=ヌスラ戦線、ペシュメルガを始めとするシリア北部クルド人勢力が参戦したほか、アサド政権の打倒及びISIL討伐のためアメリカやフランスの多国籍軍が参戦し、ロシアやイランもシリア領内に空爆をしている。トルコを始めとした中東の国々もアサド政権打倒のため資金援助、軍事支援などで内戦に介入をしており、内戦は泥沼化している。
また実態として、西側諸国が穏健派と断定している反政府武装勢力やアルカイダ系組織、IS(イスラム国)の間には明確な線引きは難しい。書く勢力が強固な組織を基盤としているわけではなく、いずれも反アサド政権、反シーア派、反アラウィー派、反キリスト教スンニ派のイスラム主義組織であることが共通点としてあることから、資金力の増減によって寝返りや武器交換も行われているため、ニュースなどで報じられているISも反政府武装組織の一つとして捉えた方が的確であり、ISのみが残虐性が突出しているわけではない。
概要
シリアにおける内戦のきっかけとして、2011年にチュニジアで起きたジャスミン革命の影響によってアラブ諸国に波及したアラブの春のうちの一つである。 英国を拠点とする反体制派組織シリア人権監視団は2013年8月末の時点で死者は11万人を超えたとし、国際連合により2012年5月下旬の時点でもはや死者の推定は不可能と発表している。難民の数は2014年末の時点で国外に逃れたシリア難民は約410万人、国内で避難生活を送っている人々は760万人にのぼるとされている。これはシリア国民の約半分、世界の難民の役5分の1という未曾有の規模となっている。
国際的なシリア国内の状況としては2011年12月に国際連合人権高等弁務官事務所が事実上の内戦状態であるとしたほか、2012年7月15日には赤十字委員会が事実上の内戦状態にあるとしている。また2012年6月にバッシャール・アル=アサド大統領が公的に「真の戦争状態にある」と発表した上で、2013年9月には「現在シリアで起きているのは内戦ではなく戦争であり、新しい種類の戦争だ」としており、シリアは「テロの犠牲者」と語っている。
また反体制派の8〜9割はアルカイーダだとも主張している。
実際にアルカイーダは2013年9月には協力体制であったはずの反政府勢力に攻撃を仕掛けるなど、アサド政権、反体制派との三つ巴の様相を呈している。さらにアルカイーダと協力関係にあったISILは解散命令を無視しシリア国内で活動を続けているなどアルカイーダとアル=ヌスラ戦線との不和も表面化しているほか、クルド人などのシリア国内少数民族も武装化して、政府軍や反政府組織を攻撃していることや、イラクのクルド人自治区のような正式な自治区を作ろうともしている。
背景
歴史的要因<p>
シリアは1962年以来、非常事態法の下にあり、憲法による国民の保護は事実上停止されていた。シリア政府は「シリアがイスラエルと戦争状態にあったため」とこの非常事態宣言を正当化していた。
1963年のクーデター以来シリアはバアス党の支配下にあり、1966年のクーデターや1970年の革命などで支配構造が変化したにもかかわらず、バアス党は独占的権力を保持している。
1970年の革命以来ハーフィル・アル=アサド大統領は対立政党や対立候補者を選挙から締め出しつつ30年近くにわたってシリアを指導してきた。
彼の後継者問題は1998年の人民議会選挙後の暴力的な抗議行動と武力衝突を引き起こし、ラタキア事件に発展した。
ハーフィル・アル=アサドは肺線維症のため1999年に死去し、当時34歳であったバッシャール・アル=アサドは大統領になりうる規定の40歳から憲法改正後の規定年齢が引き下げられた後に指名されており後継者となった。バッシャールは改革派として期待され、2000年1月からダマスカスの春と呼ばれる激しい政治的、社会的論争を引き起こした。
アサド家は、シーア派の中でも少数派でシリア人口の12%弱を占めるアラウィー派の一員であり、シリア人口の4分の3を占めるスンナ派の中に「深い敵意」が生じていた。
政府への不満は、主に保守的なスンナ派が多いシリアの貧しい地域で強く、こうした地域にはダルアーヤホムスなどの貧困率が高い都市、農村地帯、大都市の貧困地区が含まれていた。社会経済の不均衡はハーフィズ政権の末期に進められていた自由市場の導入以降大きく拡大しており、バッシャール政権となってからはさらに悪化していた。2011年シリアは全国的な生活水準の低下と生活必需品の値上がりに直面し、さらに若者の高い失業率に見舞われていた。
人権的要因シリアの人権は、国際機関から激しい非難がさらされている。1963年以降から続く非常事態宣言の効力により、保安部隊には逮捕や拘留の権限が与えられており、さらに選挙のない一党独裁状態によって支配されているため、当局は人権活動家や政府批評家を投獄など表現・結社・集会の権利を厳格に制限している。また女性や少数派民族は差別に直面しており、2010年にヒューマン・ライツ・ウォッチによればシリアの人権状況が世界で最悪の部類に属すると明言している。
特徴
シリア内戦の特徴としてあげられるのは前述にもある通り戦闘の主体がイスラム主義組織であることと多数の勢力の介入があると言える。反政府武装組織やアルカイーダ、ISなどは決して一枚岩ではなく、また援助や戦況によって穏健派や非参戦組織が参加してくることもあり得る。さらに報道で度々目にするIS(Islamic State)もイラクとシリアを主体としたISIS(Islamic State of Iraq and Syria)と中でも過激なISIL(Islamic State in Iraq and the Levant)があり、ここの線引きも明確なものがない。また反政府運動が原因と考えられているが現在は世俗主義とイスラム主義の対立や宗派対立、宗教対立、民族対立などの要素が複数絡みあっている。また反人権的なアサド政権打倒のためにアメリカを含めた諸外国の参加やイスラエルとシリアの地政学的事情など複数の要因が可変的に混在していることが紛争の長期化の原因と特徴と言える。
■ジュネーヴ諸条約における紛争
ジュネーヴ諸条約は1949年に制定された国際条約で、武力紛争が生じた場合に、負傷者、患者、病者、難船者及び捕虜、これらの者の救済にあたる衛生要員及び宗教要員並びに文民を保護することによって、武力紛争による被害を最小限に抑えることを目的とした4条約の総称である。日本は1953年4月21日に加入した。
武力紛争はその規模の大小問わず条約の適用対象となっており、共通第三条約の対象は「国際的性質を持たない武力紛争」であるとされている。しかし国内の暴動や散発的暴力行為は含まれていない。
ジュネーヴ諸条約主な内容
第一条約 (条文数:64) | 第二条約( 条文数:63) | 第三条約( 条文数:143) | 第四条約( 条文数:159) | |
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保護対象 | 軍構成員の傷病者、衛生要員、宗教要員、衛生施設、衛生用輸送手段等 | 軍構成員の傷病者、難船者、衛生要員、宗教要員、病院船 | 捕虜 | 紛争当事国または占領国の権力化にある外国人など |
適用期間 | 条約の保護対象者が敵権力内に陥ってから、送還が完全に完了するまで | 海上で戦闘が行なわれている間(上陸後が第一条約が適用される) | 敵の戦力内に陥ってから、最終的に解散され、送還されるまで | 紛争または占領期間から、原則として軍事行為の全般的終了まで |
となっている。
■引用・参考
低強度紛争戦略とは何か(2016/07/19) http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kako/111119.htm
ジュネーヴ諸条約について(2016/07/19) 防衛省HP http://www.mod.go.jp/j/presiding/treaty/geneva/ 外務省HP http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/k_jindo/giteisho.html
違いがわかる事典(2016/07/19)
http://chigai-allguide.com/戦争と紛争と内戦/