硫黄島の戦い
出典: Jinkawiki
(いおうじまのたたかい・いおうとうのたたかい)とは1945年2月19日から1945年3月26日まで行われた太平洋戦争末期の日本とアメリカの戦いである。
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概要
1944年8月、グアム島を制圧したアメリカ軍はレイテ島に上陸、そのレイテ沖海戦で日本は大敗しアメリカの台湾侵略は進む。 その中で陸軍航空軍のヘンリー・アーノルドは、より効果的に日本本土へ戦略爆撃を開始するため硫黄島攻略を提唱し、同年10月2日に硫黄島攻略が沖縄上陸へ繋がるとして、アメリカ軍全体の方針となった。 これを受け翌年2月19日硫黄島強襲が開始され、日本軍と米軍の激戦は1カ月以上も続いた。制空権と制海権を持たない日本軍にとって硫黄島が長く持たないことは明白であったが、栗林忠道陸軍中将は1日でも本土への攻撃を長引かせるため、地下壕を掘り持久戦を展開した。激しい抵抗の末日本軍は3月17日に玉砕。防衛省防衛研究所の統計では死傷者は日米合わせ約5万人。厚生労働省によると、2万1900人とされる日本人戦死者のうち、約1万1550人の遺骨が未収容となっている。 この戦いでのアメリカ軍の損害実数は日本軍を上回っており、「史上最大の上陸作戦」と言われたノルマンディー上陸作戦における戦死傷者数を上回るなど、第二次世界大戦でも屈指の激戦の一つとして有名である。
背景
硫黄島は小笠原諸島硫黄島村に属する火山島である。土壌が火山灰のため保水性がなく、飲料水が不足していた。 戦前は硫黄の採掘、サトウキビ栽培などを営む住民が約1000人居住していた。 日本軍は太平洋戦争開戦時に海軍根拠地隊約1200名、陸軍兵力3700~3800名を父島に配備し、硫黄島をこの部隊の管轄下に置いていた。開戦後は東南アジアと日本本土とを結ぶ航空経路の中継地点として重要な役割を果たすため、摺鉢山の北東約2kmの位置に千鳥飛行場を建設し、航空兵力1500名と航空機20機を配備した。 防衛線の守備兵力として編成された小笠原地区集団司令官に栗林忠道陸軍中将が任命され就任した
兵力
日本軍
陸軍 総兵力 13586名
・小笠原兵団 兵団長・栗林忠道陸軍中将 参謀長・高石正陸軍大佐 師団司令部附・大須賀應陸軍少将
海軍 総兵力 7347名
アメリカ軍
総戦力110000
硫黄島派遣軍総司令官・リッチモンド・ターナー海軍中将 次席指揮官・ハリー・ヒル海軍少将
戦後
この戦いで、日本軍は20933名のうち20129名(軍属82名を含む)が戦死した。捕虜の人数は3月末までに200名、終戦までで1023名であった。アメリカ軍は戦死6821名、戦傷21865名の損害を受けた。 1985年(昭和60年)2月19日硫黄島にて、日米の元軍人・退役軍人ら400名による合同慰霊祭が行われた。かつて敵として戦った参加者たちが抱き合って涙を流したという。この日建立された慰霊碑には日本語と英語で「我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦った事を銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之れを繰り返す事のないように祈る次第である。」と綴られている。
参考文献
硫黄島の戦い https://kotobank.jp/word/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-29946 キーワード 硫黄島の戦い(2015-02-23 朝日新聞 夕刊 1総合)