第二次世界大戦11

出典: Jinkawiki

2018年1月14日 (日) 12:36 の版; 最新版を表示
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概要

世界恐慌後、日本・ドイツ・イタリアを中心とする枢軸国陣営と他方におけるイギリス・アメリカ・ソ連を中心とする連合国陣営の間で起こった全世界規模の戦争。世界大戦の発火点は、1939年のドイツによるポーランド侵入。当初は戦争に対して消極的であった日本だが、マレー半島への上陸や真珠湾攻撃を経て、1941年12月11日、枢軸国三国がアメリカに対して宣戦布告し、翌日12日に太平洋戦争がはじまった。これが、世界へ一気に戦争の風潮を広げ、後に全世界を巻き込む大戦となった。開戦直後は枢軸国優勢とされていたが、徐々に逆転し、1943年スターリングラードの戦いでのドイツの大敗以降、43年9月にイタリア、45年5月にドイツ、8月に日本は広島・長崎への原爆投下を受けた末、無条件降伏というかたちで第二次世界大戦は終結した。この戦争による死者数は、飢饉や病気で亡くなった人も含めると、枢軸国側は約1320万人、連合国側は約4360万人、その他のアジア・太平洋各国は約912万人、合計で約6592万人にも及んだといわれている。


世界大戦の展開

日本軍の進撃

開戦直後、優勢な戦局を見せたのは日本であった。特に、東アジアでの日本軍の進撃は速やかで、マレー半島を席巻した後、1942年2月15日にはシンガポールの占領に成功した。シンガポールは、アジア・太平洋地域におけるイギリスの軍事的中心地であったため、イギリスに対し大きな衝撃を与えた。これにより勢いのついた日本は東南アジアにおけるイギリス領ビルマへも急速に侵攻し、同年3月8日にラングーンを占領した。さらにはオランダ支配下のインドネシアやアメリカ支配下のフィリピンへも軍事侵攻を行い、オランダ・アメリカ側を降伏させるなど、それまでヨーロッパの植民地であった東南アジアは日本の支配地域へと変貌した。

連合軍の戦略

アジアでの日本軍の大勝利は、連合国側に大きな危機感を与えた。しかし、連合国の軍事戦略の要点はヨーロッパでの戦争におかれ、まず第一にドイツを降伏させることを目標としていたのである。そのためには、ソ連の対独戦争の継続が鍵になると考えていた。独ソ間の戦争では、戦争指導の面でも、戦争のための軍需品生産などの面でも、ソ連側が優位に立った。ドイツは兵器の大量生産を軽視していたが、ソ連は戦車などの大量生産に成功し、一方戦争指導の面でも、独ソ戦の開始時には戦争指導者としての資質が疑われたスターリンは、その後専門家の助言によく耳を傾け、ヒトラーが迷走を重ねたのに比べて優れた資質をみせた。こうした環境のもとで、1943年3月2日、ソ連軍はスターリングラードの戦いにおいてドイツに勝利し、これ以降、ヨーロッパでは連合国側が押し気味に戦争を遂行していくこととなった。

戦局の転換点

開戦直後の速やかな大勝利で自信をつけた日本軍は、南太平洋に向けた大規模作戦を始めたものの、42年6月のミッドウェー海戦でアメリカ側に大敗北し、さらに42年8月から43年2月にかけてのソロモン諸島ガダルカナル島をめぐる戦いでも大きな損害を被った。この二つの戦いにおける日本軍の敗北が、第二次世界大戦のアジア・太平洋局面における転換点となり、以降、連合国側が優勢になっていった。

枢軸国の降伏

1943年9月、イタリアは、連合国軍のシチリア上陸作戦に直面し、内部から崩壊するかたちで降伏した。その後、ヨーロッパの戦争においてもアジア太平洋の戦争においても、連合国側が主導権を握り、45年5月にドイツ、8月に日本が無条件に降伏した。


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