渡良瀬遊水地
出典: Jinkawiki
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渡良瀬遊水地とは、栃木県南端に位置し、栃木・群馬・埼玉・茨城の4県にまたがる面積33k㎡総貯水容量2億㎥の我が国最大の遊水池である。渡良瀬遊水地へ流入する渡良瀬川は流域面積2,602k㎡、流路延長107.6kmの利根川水系最大の支川である。渡良瀬川は、群馬・栃木の県境にある皇海山に源を発し、いくつもの渓流を合わせながら、大間々地先で山峡の地を離れ、以後桐生市、足利市の中心から南東に流下し栃木市を通り、茨城県古河市地先で利根川本流へと注いでいる。
歴史
1000年前の渡良瀬川は、桐生川、秋山川などの支川を合わせ、藤岡地先で台地に沿って板倉町との境を流れ、海老瀬の七曲がりを過ぎ、谷田川、思川を合流し、茨城県五霞市の中央を流れて、かつての庄内古川筋(現中川)を通り、金杉、松戸、市川を過ぎ、現在の江戸川の河道を流れて江戸湾に注いでいた。徳川家康が江戸に入り、政治経済の中心となると、関東平野の開発が始まり、利根川も江戸湾に流れていたものを銚子の太平洋に流れるように付け替えた。これを利根川の東遭といい、これによって渡良瀬川は1621年に利根川を渡良瀬川に流す新河道が開削された。このため、渡良瀬川は利根川最大の支川となったのである。その後さらに栗橋から常陸川の間な大地も新たに開削され、現在の利根川がつくられた。 利根川の支川となった渡良瀬川下流域一部は、赤麻沼・石川沼、さらに板倉沼などがあり、地形的には周辺と比べて一段と低く洪水が自然に遊水する大湿地帯であった。その中央部の原野を開墾したのが谷中村で、周囲を堤防で囲まれた村であった。谷中村は明治22年に成立したが、5年後の明治27年の統計書によれば戸数・人口は386戸、2302人であった。
成立
明治23年、29年の洪水を契機に、渡良瀬川下流部の洪水被害とともに足尾銅山から渡良瀬川に流れ出した鉱毒による被害は明白になった。これに対し、渡良瀬川の改修や最下流部に遊水池計画が打ち出され、当時、渡良瀬川は栃木県管理であり、明治37年県議会可決後、明治37年から40年までの間に930町歩余りが買収された。その間、明治37年には谷中村は藤岡町に合併廃村となった。明治43年には、内務省による改修事業が始まり、昭和5年には渡良瀬遊水地が完成した。 その後、昭和10年、13年、22年と相次いで発生した大洪水を契機に、渡良瀬遊水地をより効果的に活用するために、渡良瀬川、思川に沿って、新しく堤防などを設け、調節池化を図り、大きな洪水の時だけ調節池のなかに川の水が入るようにし、従来より洪水調節機能を増大させる事業を実施した。
現在
現在では、洪水調節の他に農業・工業用水などにも利用されている。2012年にはラムサール条約と呼ばれる国際湿地条約、正式名称「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」に登録された。冬になると、ヨシ焼きなども行われている。
参考文献 堀内洋介 『再生の原風景 渡良瀬遊水地と足尾』(2013年・東京新聞出版社)