日本と宗教
出典: Jinkawiki
==イエズス会 ザビエルと彼の後継者は、当時日本を統一しようと覇権争いの渦中にあった織田信長から支援を受けた。織田信長は彼の計画に抵抗する仏教徒に怒り、仏教の中心であった天台宗の比叡山を焼き払った。彼は、仏教を弾圧しカトリックを支援したのだ。信長の後継者の豊臣秀吉は、信長と同じように政策上反仏教徒であったが、いくぶんかは反カトリックでもあった。なぜなら、宣教師の存在自体が秀吉の国家統一計画を妨害し始めることを恐れていたからである。1596年以降、宣教は禁止された。1597年にはフランシスコ会の修道士と日本人改宗者あわせて26名が磔刑に処された。
徳川幕府
徳川幕府は人々を仏教に統合しさらには仏教自体を「神」と習合させた。そして、社会のさまざまな階級にはそれぞれ適切な規範に従うように求められた。例えば、武士階級は武士道に従わなければならなかった。概念としての武士道は徳川時代の初めに登場し、儒学者に解釈されるようになって、学問と武道というふたつの理念は結びつけられることになった。この時代の新しい武士は、社会の行政と経営に従事せねばならず、武士の教育が必要になった。徳川時代が進むのにつれて、武士は武士としての勤めではなく、行政官、法律家、医者など多くの専門的な目標を成し遂げることになった。こうして儒学は徳川の倫理に溶け込んだのだ。また、禅と儒学思想の結びつきが見られた。禅は武道に精神的な意味と基盤を与えることにっ貢献した。