冷戦11
出典: Jinkawiki
冷戦とは
アメリカ合衆国とソ連は、第二次世界大戦中は連合国として協力してきたが、大戦末期から国際政治の主導権を巡って対立するようになった。ここから世界各地でアメリカを中心とする西側陣営と、ソ連を中心とする東側陣営が対立し、米ソ両国間は核兵器開発を中心とする軍備拡大競争を行った。ソ連はナチスドイツの占領地から開放した東欧諸国に社会主義政権を成立させ、衛星国としていった。また、米ソ英仏4カ国に分割占領されていたドイツは、ソ連占領地域をドイツ民主共和国(東ドイツ)、米英仏占領地域をドイツ連邦共和国(西ドイツ)として分断して独立するようになった。この東西分裂の象徴的な物がベルリンの壁である。それと同時に、西側陣営は北大西洋条約機構(NATO,1949年)、東側陣営はワルシャワ条約機構(WTO,1955~91年)という軍事同盟を結成し、世界規模での臨戦態勢の緊張状態となった。これが冷戦である。冷戦では米ソ両国は直接戦火を交えなかったが、両国とも世界各地の地域紛争に介入し、代理戦争を行った。この東西の冷戦は、資本主義経済(西側)と社会主義経済(東側)という二つの経済体制の対立でもある。アメリカを中心とする資本主義経済陣営は、自由貿易を推進するための国際資本主義体制(ブレトンウッズ体制)を構築した。ソ連はこれに対抗するために経済相互援助会議(COMECON,1949~91年)を設立し、社会主義経済陣営の結束を約束した。
緊張緩和へ
1950年代後半から米ソ両国は平和共存の必要性を認め、緊張緩和(デタント)を進めた。1962年のキューバ危機では米ソによる核戦争の危機に直面したが、これをきっかけに対決を避ける努力も行われるようになった。1960年代から70年代はじめにかけて、西側陣営では、西欧諸国や日本のめまぐるしい経済成長と、アメリカの経済的な地位の低下が見られた。アメリカは、西側陣営の国々へ多額の経済・軍事援助を行ってきたが、1960年代後半にはベトナム戦争に介入し、軍事支出を膨張させた。この結果、アメリカは国際収支を急速に悪化させ、ドルに対する信頼は低下、金が流出した。1973年の第四次中東戦争を契機に、第一次石油危機が起こると、西側の先進資本主義国は世界同時f京都なり、スタグフレーションという高い失業率に悩まされるようになった。東側では、ソ連と中国に政治的対立が起こった(中ソ対立)。また、社会主義経済は、重点分野の生産拡大には成果を上げたが国民の要求の多様化には対応できず、経済計画の失敗と技術革新の遅れが目立つようになり、東欧諸国の中からソ連の支配に抵抗する動きも起こった。こうしたなか、1972年には、アメリカのニクソン大統領が中国を訪問し、外交関係を樹立、米ソ接近がはかられた。
冷戦の終わり
1985年に共産党書記長となったゴルバチョフのもと、大胆な政策転換が行われた。政治の民主化を中心とするペレストロイカとグラスノスチで国内での言論の慈雨卯を拡大し、緊張緩和と軍備の縮小を進める新思考外交で