バルカン2
出典: Jinkawiki
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バルカンの歴史
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文化
交通の要地であることに加え、外部からの接近が容易だという地理的条件のため、バルカンの民族構成は複雑であり、これに伴い宗教も多様である。きわめて多くの民族がこの地域に流入した結果、民族の数の多さがバルカンの特色となった。その中で先住民として知られているのは、ギリシア人、アルバニア人、ルーマニア人である。バルカン地域で最大多数を占める民族は南スラヴである。南スラヴは旧ユーゴスラビアの主要民族であったセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人、モンテネグロ人、マケドニア人とブルガリア人であり、六世紀末までそれぞれの地域に定住した。
オスマン帝国の支配
13世紀末、小アジアに妹尾立したオスマン朝はバルカンを400~500年以上にわたって支配することになる。オスマン朝は14世紀中頃、ビザンツ帝国の内紛に応じてバルカンに進出すると、1389年のコソヴォの戦い、1396年のニコポリスの戦い、1444年のヴァルナの戦いなどで次々とバルカンの軍隊を破り、セルビア、ブルガリア、ギリシア北部を支配下に置いた。さらに1453年にはコンスタンチノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅亡させた。15世紀末までには、ボスニア、アルバニア、ワラキア、モルドヴァ、ギリシア南部を含むバルカン半島を征服した。オスマン帝国は征服したバルカン社会を徹底的に破壊して支配したのではなく、バルカンの社旗や伝統に配慮して、その上にオスマンの統治機構をかぶせたのである。オスマンの諸制度を長い時間をかけて浸透させていこうとした。スルタンを中心として、トルコ人だけではなく、さまざまな民族的出自の政治エリートが統治に当たった。
民族国家の建国
イギリスやフランスでは、近代国家のもとで統合の過程が進行し、次第に様々国内の民族集団や宗教上の少数派や言語の違いなどが乗りこえられて一つになり、均質的な社会が形成されていった。これに対して、バルカンの諸民族はオスマン帝国の支配下で長い間国家を持たない状態が続いた。19世紀にはこうしたバルカン地域にもナショナリズムの思想は普及してくる。バルカンでのナショナリズムは均質的な個人と結びつくのではなく、さまざまな民族集団のかいほうと国家を求めるイデオロギーとしての役割を担うことになった。
参考文献
佐原徹哉(2003)『近代バルカンと社会史:多元主義空間における宗教とエス二シティ』刀水書房
柴宜弘(2001)『バルカンの歴史』河出書房新社 chen