蒙古襲来絵詞
出典: Jinkawiki
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「蒙古襲来絵詞」とは
「蒙古襲来絵詞」は、鎌倉時代の肥後国御家人竹崎李長という個人の眼を通して、蒙古合戦という当時の世界戦争のいったんを、リアルに描きだした気有うの作品である。その成立は弘安の役から十年余りしか隔たっておらず、ほとんど同時代の記録ともいえる。対外戦争の経験のない日本の武士たちは、編成も先方も武器もまったく異なる軍隊を相手に、どのように戦ったのかなど描かれている。 「蒙古襲来絵詞」は十九世紀の初め頃の江戸時代の終りに現在のような形に調巻されたらしく、現在、前巻と後巻の二巻の形に調巻されている。現存する部分だけで、前巻二十三メートル、後巻二十メートルに及ぶ長大な絵巻物である。明治二十三(一八九〇)年、熊本県の大矢野十郎が明治天皇に献上して御物となり、現在に至っている。
「蒙古襲来絵詞」から見えるもの
「絵詞」に描かれた文永の異国合戦の様子は、大変有名な絵巻物であり、ほとんどの人々が同絵詞の一部を写真や絵等で目にされたことであろう。中学校の歴史の教科書には全て、高等学校の日本史の教科書にも全て、口絵や挿絵として同絵詞の写真が採用されている。そこには、彼我の戦争の仕方が対照的に表現されている。 武器としては、火薬を使った兵器「てつはう(鉄砲)」がある。鉄の半球二つをあわせてなかに火薬を仕込み、手持ちの投擲器を使って敵陣に投げ込み、炸裂させるもので、さほど殺傷力があったとも思えないが、轟音による威嚇効果は抜群だった。弓矢は、双方が使っているが、蒙古軍の弓は二種類あった。ひとつは宋式の短弓で、握りの部分がへこんだ形をしており、射程距離が長く、矢の根には毒が塗ってあったらしいとされる。もう一つは、握りにへこみのないモンゴル式の長弓である。また、蒙古軍の陣では、兵士の多くが楯や鉾を立てて持っている。集団戦法は日本軍をまどわせた。 日本軍の戦法は、あくまで単独のリーダーに率いられた少人数の軍団を単位とした。「やあやあ」と名乗ってたとされるが、名乗っているうちによってたかって組み敷かれてしまった。戦闘開始のときには、「愚童訓」によれば、蒙古の陣からどっと笑い声があがったという。
御物「蒙古襲来絵詞」の伝来
現在、御物の「蒙古襲来絵詞」は、明治二十三年七月、久しくこれを襲蔵してきた熊本の大矢野家から皇室へと献納されたものである。この大矢野家は肥後の宇土在住の細川家の藩士の家で、鎌倉時代には幕府の御家人の家柄であった。 もと竹崎李長の家の所蔵であったこの絵巻が、大矢野家に移った事情は、この絵巻に添えられている由緒書によれば、この絵巻は数代竹崎家に伝えられてきたが、家勢衰退に及び、隣接する宇土の城主伯耆家に移り、天正時代、顕孝の代のむすめが、天草・大矢野家には意義があるというのでこれを贈ったのだというのである。大矢野家は肥後が細川家の支配に移ると、その家臣として仕えたのであるが、この大矢野家の「蒙古襲来絵詞」は、いつしか有名となり、寛政五年には、時の老中松平楽翁の所望によると思われるが、江戸にもたらされた。楽翁はこのとき、摸本を作らせたのであろうとされる。その摸本は現在、宮崎県立博物館に蔵されている。
参考文献
北条時宗と蒙古襲来 時代・世界・個人を読む NHKBOOKS 村井章介
蒙古襲来絵詞 日本絵巻大成14