桜田門外の変

出典: Jinkawiki

2008年11月28日 (金) 09:08 の版; 最新版を表示
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桜田門外の変

 1860年3月3日に江戸城門桜田門外で井伊直弼が水戸脱藩浪士らに暗殺された事件。

 暗殺が決行されたのは、江戸城でも弥生の節句恒例のお祝いを予定していた1860年3月3日。いわゆる桃の節句のこの日が選ばれたのは、年5回の節句の日に諸侯が登城する決まりになっていたからである。この登城中の井伊を江戸城門桜田門外で襲撃した。計画の実行にあたったのは、関鉄之介をはじめとする水戸脱藩浪士(こういうとき、出身の藩に迷惑がかからないように、先に脱藩といって藩をやめてから行動に出るのが当時のやり方であった。)17名と、水戸と並んで反幕府運動を計画していた薩摩の脱藩藩士・有村次左衛門の計18名であった。  前日来降る大雪の朝、江戸城に近い井伊家屋敷を出た大老に付き添う一行は彦根藩士百人以上。行列が桜田門に近づこうとしたとき、直訴をするように突然前に躍り出た一人が刀を抜いて切りつける。同時に合図の銃声が響き、見物客を装っていた残る藩士らが一斉に駕篭の井伊をめがけて突進してきた。一行は不意を打たれた上、刀にすべて柄袋を付けていた。井伊は駕篭の外から刀で突き通されて引きずり出され、襲撃者中ただ一人の薩摩脱藩浪士・有村次左衛門によって首をはねられたという。

井伊直弼暗殺の経緯

 井伊直弼の一連の専制的な政治は多くの藩の反感をかうが、中でも最も反感を強めていたのが水戸藩であった。

きっかけは、将軍継嗣問題であった。有力候補であった一橋慶喜は水戸徳川家の出身であり、前藩主徳川斉昭の七男である。井伊は強引にそれを退けて慶福を将軍の座に就かせたのである。井伊に対する反感を強めた水戸藩は、他の大名とともに、井伊が「勅許を受けずに日米修好通商条約に調印した」ことを口実に攻撃をはじめていく。

 水戸藩は、尾張・紀伊と並んで御三家と呼ばれる高級クラスの有力大名であり、しかも、その後水戸藩には朝廷までが味方し始めた。勅許を得ずに条約調印をしたことに憤激した孝明天皇が、水戸藩に対して「攘夷」を命じる勅諚を下していたのである。水戸藩が朝廷と手を結んで陣営を形成したことは、幕府にとって見逃せない重大な事態となった。そこで、幕府は、安政の大獄によって特に水戸藩への圧力を強めていった。  しかし、これは水戸藩の反感を強めるばかりであった。そして水戸藩の中の急進派の面々が、これ以上の横暴を食い止める手段として井伊直弼暗殺を決意することとなった。      実はこの暗殺計画のことを、井伊は親交のある藩士らから事前に知らされていたと言われている。しかし井伊は特に警護を増やすことなく、予定通り登城した。幕府の高官として、幕府の行列の作法を崩すことを嫌ったのである。そして、結局、登城中の駕篭の中にいるところを刺殺されている。駕篭から逃げることもなく、抵抗もしなかったのは、幕府大老としての最後の威厳を保つため、あえて死を受け入れようとしたからだと言われている(すでに銃撃を受け、動けなかったのだとする説もある)。  この暗殺は、井伊を倒すことによって幕府の改革をめざしたものであり、幕府の打倒をめざしたものではなかった。しかし結果的には、この事件により幕府の権威は大幅に失墜することとなったのである。

 ちなみに、井伊直弼は出身の彦根藩(今の滋賀県)では名君として人気がある。また、30歳を過ぎるまで部屋住み(人の家に居候)をしていた。  そして、一生にただ一度の出会い、この出会いは一生にただ一度の出会いになるかもしれない、そういう思いでいつも人と大切に接するという精神を表わす「一期一会」という言葉を残した。

引用文献

後藤武士 著 「読むだけですっきり頭に入る 日本史」宝島社 2000

武光誠 監修 「知性のBasicシリーズ 3日でわかる 日本史」ダイヤモンド社 2000

日本史新聞編纂委員会 編 「日本の出来事 丸ごとスクープ 日本史新聞」日本文芸社 1998 


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