アマラとカマラ

出典: Jinkawiki

2008年12月8日 (月) 08:41 の版; 最新版を表示
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目次

概要

アマラ(Amala,? - 1921年9月21日)とカマラ(Kamala,? - 1929年11月14日)は、1920年にインドのミドナプール付近で狼とともに暮らしているのを発見された二人の少女。孤児院を運営するキリスト教伝道師ジョセフ・シング牧師によって保護・養育された。シング牧師は幼少時に親に捨てられた少女たちが狼に育てられたものと発表し、文明から切り離されて育てられた人間(野生児)の事例として有名な逸話となったが、その真実性については議論がある。「実の親にある程度まで育てられた自閉症児が捨てられたのではないか」との説もある。 日本においては、1955年に翻訳出版された『狼にそだてられた子』(アーノルド・ゲゼル著、生月雅子訳 新教育協会)によってこの逸話が紹介されて知られるようになり、教育や児童心理学の分野で度々参考にされている。

否定的見解

狼の生態からみた否定的見解 (1) 授乳・食餌の問題 狼の子供は吸乳に際し,みずから進んで母オオカミの乳房を求めてしゃぶりつく。 母狼の方から積極的に授乳することはしない。これに対して人間の場合,乳児は受動的な行動型しか備えていない。すなわち,母親が乳児の口元まで乳房をもっていかなければ吸引しない。イヌがネコの子供を育てたりする例があるが,これは授乳方法が合致しているから可能なのであって,母狼と人間の子供の場合のように,互いに受動的なもの同士の組み合わせによる養育は不可能である。狼の乳汁成分は人間と比べて,脂肪は2.4倍,タンパク質は7倍,炭水化物(乳糖)は半分である(表2)。これでは人間の乳児は消化できず,吐きもどしてしまう。狼の子供は5週間で離乳する。その後,離乳食として親がいったん胃に収めて半消化した吐きもどしの肉を与えられる。子供が母狼の口元に鼻づらを押しつけ,食物をねだる。この刺激を受けると母親は食物を吐きもどし,子供達に与える。衛生的な面もさることながら,人間の赤ん坊がこの生肉を消化できるだろうか。これらのことをすべて巧くクリアしたと仮定しても,人間の子供が狼の巣穴で,果して何を食べていたのだろうかという疑問は最後まで残る。成育に必要なカロリーや栄養は十分だったのだろうか。

(2) 移動の問題

狼は巣穴でばかり暮らしているのではない。広範囲にわたって移動する季節もある。 その時は,人間の子供もオオカミと共に移動しなければならない。 狼は45~58㎞/時で疾走する。人間の場合,短距離走者でも35㎞/時である。 狼のスピードと長距離の移動について行ける能力が,人間の幼い子供に果してあるのだろうか。しかも,四足歩行という人間にとって本来不自然な態勢で走るのである。

(3) 群れの問題

狼は普通10数頭程度の群れで暮らす。その内訳は,繁殖できる雄と雌,その年に 生まれた子供や前年に生まれてとどまっている子供,それに他の成狼が加わることもある。いずれにせよ,群れのメンバーは何年も同じではない。狼は子供が成長すれば巣穴を追い出し独立を強制する習性がある。成熟した狼は群れから離れて,他の群れに加わるか,新たなペアを作って生きはじめる。この生態からいって,8歳のカマラだけが特別に数年間同じ群れで暮らしていたというのは不自然である。それとも,複数の狼の集団がカマラを次々に受け入れたというのだろうか。狼は人間(とりわけ子供)を襲うことが知られていることを考え合わせれば,こちらの可能性の方がはるかに低い。その他,コミュニケーションの問題もある。イヌや狼は,威嚇や服従などの心的状態を尾で表現するが,カマラは一体どのように対処していたのだろうか。 「ほとんど毎晩,きまって3回,一度は夜10時頃,一度は午前1時,もう一度は午前3 時に叫び声を上げた」とシング牧師は日記に記している(1920年10月10日)が,遠吠えの機能は,群れに召集をかけて同一行動への歩調を合わせることであり,したがって狼の遠吠えが最もよく聞かれるのは,集団での狩りに出かける前の夕方と,早朝の2回である。このように狼的人間であることが強調されており,それも狼の俗流的なイメージに即して描かれている。地面に置かれた皿に口をつけ,犬のように皿から飲み食いしている写真や,四つ足で這っている写真などと共に,木に登ったカマラの写真まであるが,犬種の動物の特徴としてオオカミは木には登らない。

生物学的な面からみた否定的見解

(1) 昼間は眠くて生気がないような顔つきをしていた。しかし夜12時を過ぎると,目はカッと見開かれ,暗闇の中でネコやイヌみたいに青いギラギラする独特な光をおびた。夜中には,その青い2つの目の光だけで,あとは何も見えなかった。夜行性動物の目が暗闇で光輝を放つのは,脈絡膜の虹様色素上皮膚であるタペタム(tapetum)があるためで,これを欠く人間の目が夜輝くはずはない。

(2) 彼女らは,昼間より夜の方がよく見えた。人間の視覚や活動がまったく衰えてしま真っ暗な夜でも,彼女らは凹凸のある地形を自由に動き回れることがわかった。夜中でも暗い所でも,大人や子供や動物や鳥やその他のものを,見つけることができるのだった。   網膜には,桿状体と錘状体という2種類の視細胞が存在する。夜行性動物には,弱い光に鋭い反応を示す桿状体がきわめて多く分布する。他方,昼行性の動物には,明るい所で反応する錘状体がきわめて多く分布する。錘状体は明るい所で感じる。特に色を感じる。暗い所では働かない。桿状体は光を感じる。ごく弱い光にも感じるので暗い所で役立つ。 犬科の動物の錘状体は,全視細胞のわずか5%に過ぎない。これが人間だと50%である。   (3) まるで動物みたいに,非常に遠くから肉やその他のものの臭いがわかった。カマラは  70ヤード(約60m)も離れた所から肉の臭いをかぎつけ,調理していた台所へと急いで走って行った。人間などの霊長類では,立体視に必要な視覚を発達させるために,嗅覚は犠牲にしてしまった。霊長類の脳を見ると,左右から相い寄った眼球にはさまれた格好で,嗅覚を司る嗅脳の部分は圧迫され,縮小してしまっている。これに対して,イヌ科の動物は嗅覚が特に発達している。イヌ科の動物は臭いを嗅ぐ鼻腔の粘膜は複雑なひだ状のうねりをつくり,嗅ぐための粘膜面積が非常に広く,嗅覚の神経細胞も沢山集まっている。 人間の嗅細胞は1億個といわれているが,イヌはその50~600倍もの数をもつと推定される。嗅上皮の面積を比べてみると,人間のそれは10円玉くらいの大きさであるが,それに比べイヌの方は千円札大の大きさにもなる感覚細胞をもっている。

(4) とても暑い日や夜でも,汗をかいているのを目にしたことはない。イヌ科の動物の皮膚が,どんなに暑い時でも驚くほど乾いたままなのは,足以外には機能的な汗腺をもたないからである。そのため,体温を下げるために舌を出してあえいで発汗の代わりにする。 人間は特別からだの大きい動物ではないが,もっぱら汗腺を活用して体温降下を行なって  いる。気温が高くなると,人間の体温も高くなろうとする。このような時,高くなろうとする体温を抑える働きをするのが汗である。皮膚にできた汗が蒸発すると,からだの熱が奪われる。その時皮膚は涼しさを感じる。皮膚が退化して汗をかくことのできない男性の例が記録に残っている。この男性は気温が高くなると,正常状態の時と比べて呼吸の速さは,1分間に90回になったという。

(5) 手や腕が長く,ほとんどひざに届くほどだった。人間の腕は,チンパンジーやゴリラと同じ長さであり,元来人間の腕はけっして短くはないのである。むしろ足が長過ぎるのである。背の高い人種とそれほど高くない人種を比べてみると,胴の長さは余り違わないのに,背の高い人種は足が長いことがわかる。例えば日本人と欧米人が並んで立った時,背の高さが違っていても椅子に座ると,背の違いがほとんど目立たなくなる情景はよく経験することである。シング牧師の残した,カマラの数枚の写真から判別するかぎり,とてもひざに届くほどの長さとは考えられない。また,正確に計測されたものでもないし,余りに主観的過ぎるといってよかろう。 (6) カマラは両手両足で追いつけられないくらい速く走った。四足動物の前肢は人間と違って,ほとんど前後にしか動かない。後肢も人間ほど広げることができない。また,地に着くのは指の部分だけで,手首とかかとはいつも上がっている。さらに,指先には指球という発達した肉質のクッションがあり,走る時の接地に適している。これらはすべて走るのに適している。他方,人間の足は直立二足歩行に適するように何千万年を費して発達してきた。土踏まずがあり,ふくらはぎがあるなどの点で優れている。骨盤のつくりにしても,人間のからだは直立二足歩行によく適している。 長年獲物を追って草原を走り続けた疲れを知らない優美な構造である。        四足動物の走りは,全身を使ったダイナミックな運動である。人間の足と四足動物の肢とは,骨格やこれに付随する筋肉などの構造そのものが,根本的に違っている。四足動物がそのまま立ち上がったのが,人間ではないのである。人間が四足歩行で速く走れるよう幼児から訓練したにせよ,そこにはおのずと限界がある。 そもそも人間が四つん這いの姿勢で前方を見るためには,首が痛くなるほど後方へ曲げなければならず,長時間の運動は不可能である。

(7) 歯はびっしりつまって並んでいたが,とても鋭くとがった歯があり,ふぞろいだった。犬歯は,普通より長く,ずっととがっていた。犬歯は,他の動物では威嚇や闘争のために使われることが多いが,人間の場合には一種の道具,つまり武器を使用して動物を殺したり,闘争したりしてきた。また人間では直立姿勢そのものが,他の動物に威嚇になっている(図8)ので,犬歯は大きくなる必要はなかった。さらに,道具と火の使用によって,なまの食物や固い食物を切り裂き,かみ砕く機能から解放されたため咀嚼器が退縮し,それに伴って歯は小型化し,特に犬歯の先端は丸くなりそれはもはや牙ではない。       直立している人間を正面から見ると,かなり大型のウマ類などと同じ体格に近いので,ほとんどの動物は恐れる。


真実性

このように狼の生態からみても、生態学的に考えてもまず真実性は低いと考えてよいだろう。人間は環境に左右される生き物ではあるかもしれないが、環境によって狼のように体が変化するわけではない。狼と一緒に暮らしていけるのだとすると、それはもはや人間ではない別の動物である。人間には人間の能力や特徴があり、それはどんな環境があっても限界がある。 人間の教育に衝撃を与えたこの事件だが、環境を考える参考には大切なことだとは考えられる。言葉を教えなければ、話すこともできないし(自閉症の説もあるが)、立つことすらできない。これは、人間が非常に未熟な状態で生まれてくることの証である。狼のように生まれたころからある程度の歩行機能や知能は兼ね備えていない。だからこそ、未知の可能性が示唆されるのかもしれないが、明らかに共に暮らすことはできない。 やはり、この「狼少女」の事件というのは、真実性は非常に疑われるものである。しかし、人間の可能性をおおきく感じさせる、また考えさせる事件なのだと考える。


参考文献&リンク

梁井貴史「“オオカミに育てられた少女”は実在したか」 [1]

『狼に育てられた子―カマラとアマラの養育日記』 J・A・L・シング著 1978 中野善達・清水知子訳  福村出版 


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