青木昆陽

出典: Jinkawiki

2009年1月19日 (月) 13:57 の版; 最新版を表示
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目次

生涯

青木昆陽(1698-1769)は江戸時代中期の儒学者、蘭学者として知られている。元禄11年5月12日生まれで江戸日本橋の魚屋の出といわれる。通称は文蔵。京都の伊藤東涯に古学(儒学)について学び、27歳で江戸で塾を開く。やがて町奉行の大岡忠相に認められて1733年に8代将軍徳川吉宗に推挙され、1735年には『藩薯考(ばんしょこう)』という著書を著し、吉宗に飢饉対策用にサツマイモの栽培を提案し、その功績から人々に「甘藷先生」と呼ばれるようになった。墓所の目黒不動の瀧泉寺には「甘藷先生之墓」があり、甘藷の試作が行われた幕張では昆陽神社が建てられ、昆陽は芋神さまとしても祀られている。1740年に吉宗から野呂元丈とともに蘭語学習を命じられ、1742年以降は言語、文化、社会などを学んだ。その後は幕府の書物奉行となり、昆陽の修得した成果は、前野良沢に受け継がれることになる。今でもその碑は九十九里町、豊海小学校の近くに残っている。

甘藷(サツマイモ)栽培

江戸時代、享保の改革の時期に、8代将軍であった徳川吉宗は、実用の学問を奨励し、特に農業の分野で多くの人材を登用した。その一人に青木昆陽がいた。昆陽は江戸で生まれ、京都で学び、再び江戸に帰って才能を認められた。たまたま享保年間に西国が飢饉にみまわれ、幕府は飢饉の際の食糧確保の方法を考えなければならなくなった。これにこたえ、青木昆陽は、やせた土地でも収穫が期待できるサツマイモに着目し、その実用化に成功した。サツマイモは関東各地や伊豆七島にまで広がっていった。サツマイモの試作地は九十九里と現在の千葉市花見川区幕張で始めて、ここで試作に成功したという。このサツマイモのおかげで当時貧困に苦しんでいた農民たちを飢えから救うことが出来たという。この甘藷(サツマイモ)の栽培は、江戸時代の飢饉だけでなく、太平洋戦争時も救荒食物として多くの人々を救ってきた。現在の九十九里地域では甘藷の名産地ではなく、多くの農作物が栽培されている。

蘭学の師

昆陽は幕府書方に任じられる各地の古書、古文書の調査にあたり、幕府に仕えた。昆陽は徳川吉宗に任じられて医師である野呂元丈とともに蘭語を学び、「和蘭(オランダ)文訳」「和蘭文字略考」などの辞書・入門書を著し、次代の蘭学の興隆に貢献した。前野良沢は晩年の門下であり、昆陽が蘭学を教えたという。著書には、『経済纂要(けいざいさんよう)』、『昆陽漫録』、『草盧(そうろ)雑談』などがある。こうして昆陽は蘭学の始祖となる。

サツマイモの関東地方への普及について

サツマイモは、青木昆陽のサツマイモ試作の後に関東に栽培が広まったとされているが、この点に関しては疑問が残されている。昆陽が幕張、不動堂に出張したのは年間勤務数 117日のうちで、7日であり、ほとんど現地には行っていないということ、昆陽がそれ以後に、薩摩芋普及の職務からは離れて古文書収集や蘭語研究に携わっているということ、また、昆陽以外に薩摩芋栽培を行ってきた人物として平野良右衛門という人がいて、実際の栽培に関して、平野が行ったと考えられること、このほかにも、享保以前に関東にも薩摩芋の栽培方法がもたらされていたという文献があるということなどの考えが疑問へとつながっている。しかしながら、昆陽の試作が本格的なものであり、栽培を広く普及するために行われたこと、そしてこの薩摩芋の試作後に薩摩芋が救荒作物として考えられるようになったということで重要な試みであったことには変わりないといえる。


参考文献日本史用語集  山川出版社

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%98%86%E9%99%BD/

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%98%86%E9%99%BD


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