満州事変

出典: Jinkawiki

2009年1月17日 (土) 18:01 の版; 最新版を表示
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満州事変は、1931年9月18日に奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍(大日本帝国陸軍)が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争。関東軍はわずか5ヶ月の間に満州全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。中国側の呼称は九一八事変。この軍事衝突を境に、中華民国東北部を占領する関東軍と現地の抗日運動との衝突が徐々に激化した。日本では軍部が発言力を強めて日中戦争への軌道が確定し、中華民国市場に関心を持つアメリカら列強との対立も深刻化した。いわゆる、十五年戦争の発端は満州事変を基点としている。


軍部独走の始まり

ロシアに代わって満州への進出を果たしていた日本は、当初中国国内の混乱に乗じて国民党政府と対立していた当地の軍閥、張作霖を利用して、満州の独立を目指す計画を進めていた。しかし、張作霖が思うように動かなかったため、より直接的な軍事支配体制の確立を目指す方針へと転向した。この路線に従い、日本軍の現地部隊、関東軍は張作霖を爆弾テロにより暗殺し、さらに自作自演の爆弾テロ、柳条溝事件を起こして、それを口実に満州事変を発生させた。そして関東軍はその後継者張学良の軍、次いで国民党の中国軍を破り、最終的には満州全体をその軍事的支配下に置き、辛亥革命により亡命していた溥儀を立てて傀儡政権を組織し、満州国として独立させた。


国際社会の対応

このような日本の強引な満州進出政策は、当然ながら国際社会の批判を集めることになる。国際連盟は、満州事変や柳条溝事件を巡って「リットン調査団」を派遣し、それが関東軍による侵略行為によるものと認定し、臨時総会において、満州国の不承認、満州からの日本軍の撤退などを内容とする対日勧告決議を採択した。  これに対して日本政府は、満州の権益に固執する軍部、財界に引きずられる形で、常任理事国でありながら、勧告拒否・国際連盟脱退の道を選び、国際社会からの孤立を決定的にした。


参考文献

  ・自由国民社 土屋彰久著 教科書が教えられない政治学

  ・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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