天保の改革

出典: Jinkawiki

2009年1月25日 (日) 18:03 の版; 最新版を表示
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1. 老中となる

水野忠邦は、1749年、唐津藩(佐賀県)の藩主の子として江戸で生まれた。早くから幕府の政治に参加したいと思っていた忠邦は、藩主になってまもなく、大名などが将軍に会う時の世話係になった。さらに出世を目指して、忠邦は、唐津から領地をかえてもらうことを望み、1817年、寺社奉行になると同時に浜松(静岡県)へ移った。その後、大阪城代・京都所司代などの重職を経て、1834年に老中となり、やがて、老中筆頭となって政治の最高責任者となった。

2. 天保の改革

1841年に家斉が死ぬと、忠邦は、これまで政治の中心にいた人物をやめさせて、幕府政治の改革を宣言した。まず、倹約令を出し、ぜいたく品はもちろん、値段の高い菓子や料理も禁止した。さらに歌舞伎や小説など人々の楽しみまでを統制し、町奉行に鳥居耀蔵を任命して厳しく取り締まらせた。忠邦は、江戸の物価を引き下げるため、株仲間の 解散を実施したが、これは物価の乱高下を招いき、逆効果となった。また、人返しの法を出して、農民の江戸への出稼ぎを禁止し、江戸に出ている農民を強制的に自分の村に帰した。これは、天保の大飢饉であれてしまった農村を立て直すために行われた。

3. 上知令

1843年、忠邦は幕府の権力を強めようとして上知令を出した。上知令は江戸・大阪周辺の大名や旗本の領地を幕府の支配地(直轄領)にして、財政を安定させ、外国に対する守りを強めようとするものだった。しかし、大名や旗本たちの猛反対にあい、結局、実施できなかった。上知令の失敗により、忠邦は老中をやめさせられた。


参考文献:「まるわかり日本史」 須藤公博著 永岡書店・ 「らくらく入門塾 日本史講義」 小和田哲男著 ナツメ社・「人物で分かる日本の歴史」 数学研究社


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