前島密2
出典: Jinkawiki
←前の版 | 次の版→
前島密
天平6年(1835年)に越後の国(現在の上越市)の豪農の家に生まれる。房五郎と名づけられ、 小さい頃は将来は医者になることを夢にみて、おじさんの家で 手伝いをしたり塾にはいったり して一生懸命勉強をしていた。 弘化4年(1847年)に医学を勉強するために江戸にでる。江戸では医者の家に薬室生として住み 込み、薬の調合や病人の世話などとしながら、医学の勉強、ま た蘭学、英語を学ぶ。 嘉永6年(1853年)にアメリカの海軍提督ペリーが4隻の軍艦(黒船)を連れて浦賀にやってきた。 当時18歳の房五郎は、この様子を見て心をおどろかせ、これからの日本のことを思うとじっとして いられないという気持ちになり、じっとして本を読んでいるのではなく、国を守る方法を考えなけ ればならないと考えた。そこで房五郎は日本の国の沿岸の様子を確かめるために、旅にでる。この 旅終えて房五郎は自分がもっともっと勉強をしなえればならないことに気が付きますます勉強には げむようになる。 安政5年(1858年)航海術を学ぶために函館に赴く。ここではアメリカ商船の船長を呼んで航海術 を学ぶこができたので、房五郎は夢中になって学んだ。また、この年名を巻退蔵と改める。 安政7年(1860年)開を主張していた大老井伊直弼が、江戸城の桜田門外で水戸藩の浪士に暗殺さ れるという出来事が起こり、これにこころを動かされ、この年の12月に江戸に帰りことを決める。
明治2年(1869年)明治政府の民部省に勤めることになり、翌年、政府の役人の旅行や、手紙や品 物などを送る仕事をしている駅逓司という役所の駅逓正を命じられる。以前旅に出ていたり、江戸 から離れたところに住んでいた時、日本の通信の不便なことを巻退蔵は痛感していたため、任命さ れた時から、日本の通信を新しく変えていくことを考えた。不便なこととは、手紙のやり取りに時間 がかかること、急ぎの用の時に知らせる方法がないこと、手紙が確かに相手に届くか分からないこと であった。この不便さを解消するために、「郵便」や「ポスト」「切手」などの名前を決め、東京と 大阪間の郵便物の発着時間を決めた。政府のものだけではなく、民家の手紙も一緒に送り、送る金額 は政府と民間も同じにすることを決めた。
翌年、進んだ郵便制度の仕組みを自分の目で確かめるためにイギリスへ行く。イギリスから帰国する とこれまでの飛脚の制度を廃止した。その後郵便の仕事は長崎まで進めらえた。 明治8年アメリカとの郵便の取り決めがまとまり、日本の人たちが、日本の切手を貼って外国へ手紙 を出すことができるようになった。「わが菊花、今日よ りその華麗なる光輝を世界の人民に映射せん。」 この言葉は外国郵便の開業式の中で、密が言った喜びの言葉である。 明治19年に東京専門学校(現早稲田大学)校長に就任。
明治27年北陸鉄道株式会社の社長に就任。生まれ育った新潟県の北陸鉄道(直江津ー新潟)建設を開始した。 上記のような功績が認められ、明治35年に男爵の位が贈られた。またこの多大なる功績は「日本の 近代郵便の父」と呼ばれる所以でもある。 大正8年84才で死去。
参考文献
上越市観光ホームページ http://www.city.joetsu.niigata.jp/kankou/ijin/ijin6.html