小野妹子

出典: Jinkawiki

2009年1月27日 (火) 16:52 の版; 最新版を表示
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・小野妹子とは

推古朝の官人である。生没年不詳であるとされているが、生まれ年は西暦570年~590年の間と推測される。また、西暦669年6月30日永眠説がある。 近江国滋賀郡小野村(現、滋賀県滋賀郡志賀町)を本拠とし、和珥・春日氏の同族であり、歌人の小野小町、能書家の小野道風は小野妹子と同族である。また、小野毛人は子、毛野は孫にあたる。 大化の改新後は、政治上の顧問役である「国博士」に任命される。また、後に仏門に入り、名を専務と改める。


・遣隋使として

小野氏の本拠地は近江であり、朝廷のある大和(奈良)とは少し離れており、その一族にいた妹子は当時は全くの無名であった。だが、その優秀さをいち早く見抜いた聖徳太子によって、遣隋使の大役を任された。

607年(推古15)遣隋使として中国に渡った。冠位は大礼。隋では蘇因高と呼ばれた。この時、当時の隋皇帝・煬帝に太子から預かった国書(「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる国交樹立を請う書)を渡し、煬帝から大いに怒りを買った。一年間ほど隋に留め置かれた後、608年にようやく答礼使の裴世清と共に帰国した。妹子はこの時、煬帝から国書を授かっていたのだが、帰国後に天子に奏上した際には、帰国途中に朝鮮半島の百済で紛失(奪われた)したと言った。国書の紛失は大罪であるが、なぜか妹子は何の処罰も受けなかった。これには幾つかの考え方があり、煬帝の国書が天子及び太子にとって不都合な内容であったため、なくしたことにしたという「気を利かせた説」や、煬帝の激高を目の当たりにした妹子が、朝廷では紛失したと偽り、太子だけには返書を見せ、妹子の心中を察した太子が処罰を行わなかったというものである。 同年、裴世清らの帰国の際に、「日本書紀」によれば「東天皇啓白西皇帝」の国書をたずさえ、改めて遣隋使に任命され、裴世清と共に再び隋に渡った。その時の小使は吉士雄成、通事は鞍作福利で、高向玄理・南淵請安・僧旻ら留学生・学問僧8人が随行した。この留学生らは、それから30年間も中国に留まり、帰国後は大化の改新で活躍することになる。一方妹子は、翌609年帰国した。その後の業績は明らかではないが、冠位は大徳にまで昇った。

遣隋使の派遣は「日本書紀」によれば、計6回である。                                                                         600年が初回で、607年が小野妹子が煬帝に国書を渡した回。 608年に2回、この時は隋の裴世清とともに小野妹子も再度渡海しているが、高向玄理や南淵請安、僧・旻などの留学生も渡海。中国文化の特色を勉強して、帰国してから、大化の改新後の日本の文化の発展に貢献したとされる。他に610年と614年に1回ずつ派遣されたと言われている。ただし、派遣回数には諸説ある。




・参考文献

http://www.ononoimoko.org/ononoimoko.html


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