豊臣秀吉
出典: Jinkawiki
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織田家の足軽、木下弥右衛門の子として、尾張の国(愛知県)の中村で生まれた。16歳のとき家出し、今川氏の家臣松下兵衛につかえる。19歳で清洲の織田信長に召しかかえられる。桶狭間の戦いが初陣だが、美濃(岐阜県)の斎藤竜興を攻めるとき、攻撃の拠点となる墨股城を短期間のうちに築く手がらをたて、初めてその名をあげた。その後もめざましい働きを続け、38歳のとき12万石の大名となり、浅井氏の居城だった小谷城を与えられる。次の年には長浜城主となった。信長が中国地方の大敵毛利氏を攻めたとき、総大将になった。1582年4月、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を、水攻めにして包囲した。しかし6月3日夜、本能寺で信長が死んだことを知らされた。秀吉は直ちに毛利方と講和し、敵将宗治を切腹させてから、大急ぎで姫路城にとって返す。6月13日、秀吉は信長を殺した逆臣明智光秀と京の山崎で対決し、これを破る。それから秀吉はしずヶ岳の戦いで織田家第一の重臣柴田勝家を破って、信長の後継者の地位を確立した。ついで、徳川家康と尾張の小牧・長久手で戦ったが勝負はつかなかった。このころ秀吉は、天下にならびない壮大な城、大阪城を作った。1586年、秀吉は朝廷に願い出て、それまで藤原氏が独占していた関白の地位についた。さらに姓を豊臣と変え、「関白太政大臣豊臣秀吉」となる。秀吉は奥州から四国・九州まで平定し、ついには関東の雄北条氏をほろぼして、本能寺の変から8年目の1590年、全国を平定した。政権を確立した秀吉は、前田玄以・石田三成ら5人を奉行に任命し、政務をとらせる。天下統一を成し遂げると、秀吉は中国・明も征服しようと思い立った。そのため2度にわたって朝鮮に兵を送ったが失敗に終わった。子の秀頼が生まれるとこの子を深く愛し、後継者としていた養子の関白秀次を殺してしまう。晩年の秀吉には、かつて人に愛され、人間味と機略にとんだ武将の面影はなかった。
参考文献
『小学歴史人物』 赤尾文夫 旺文社
『歴史の精解と資料』 藤井譲治 文英堂