タリバン
出典: Jinkawiki
ターリバーン (طالبان Tālibān) は、パキスタンとアフガニスタンで活動するイスラーム主義運動。2001年11月頃までアフガニスタンを実効支配していた。日本では通常タリバン(またはタリバーン)と表記される。 ターリバーンの最高指導者はムラー・モハメド・オマル。ただし2001年以降は生死不明である。
タリバン誕生に至った経緯についてはアフガニスタン--タリバンの誕生の経緯-- を参照のこと。
■指導者が選ばれた経緯
タリバンという名称は、タリブ(イスラム学生)の複数形から来ている。 分散してはいたが、深くこの事態を憂慮していた各グループのマドラサの学生たちがムラー・モハメド・オマルの元に集まり、タリバンという組織を名乗った。
何人かのタリバンは、オマルが指導者として選ばれた理由は彼の政治的、軍事的能力ではなく、その敬虔な揺るぎないイスラム信仰のためである、または、神によって選ばれたのだと語っている。
オマル自身はパキスタン人ジャーナリストのヒムラ・ユスフザイにこう話している「われわれは、アフガニスタンの聖戦の目的を達成し、ムジャヒディンという者たちによって人々がこれ以上苦しめられないよう、武器を取って立ち上がった。われわれは全能の神への完全な信仰をもっている。われわれは、決してそれを忘れない。髪はわれわれを勝利で祝福することも、敗北に突き落とすこともできるのだ」
全能の神を絶対とする揺るぎない信仰が、混沌と流血の中で育ち、マドラサで学んでいた多くの学生を引き付けたようだ。
■タリバン構成要員
タリバンを構成しているのはかつて300年にわたりアフガニスタンを支配していたパシュトゥン人(アフガニスタン人口の40%を占める)であり、当初その多くはパキスタンのアフガン難民キャンプに作られたマドラサ(イスラム神学校)の神学生から選び出された。
ムラー・オマル、タリバン政権時の法相のムルディン・トラビと前外相のモハメド・ガウスは片目であり、ムラー・ハッサン・レーマニ、カブール市長のアブドル・マジドは片足である。ほかの指導者たち、軍司令官たちも同様に身体障害者である。 ムラー・ハッサン・レーマニはタリバンの創設メンバーで、ムラー・オマルに次ぐナンバーツーだと見られている。ソ連軍との熾烈な戦闘を経験した数少ない生き残りである。
■タリバンの統治思想
極端に厳しく解釈したシャリーア(イスラム法)を実施した。女子学校を閉鎖し、女性は仕事に就くことはおろか、買い物に出ることさえ禁じられた。同時にタリバンはあらゆる種類の娯楽(音楽、TV、ゲーム、スポーツ等)を禁止した。
最高指導者ムラー・オマルの秘書長であるムラー・ワクリは「われわれは政治や経済を認めないし、公務員や兵士に与えるのは食糧、衣服、銃だけで、給料は出さない。われわれは、アフガニスタンの地に、預言者モハメッドが生きていた1400年前の世界を再現するのだ」とパキスタンのジャーナリスト、アハメド・ラシッドに語っている。
なぜ娯楽を禁止するのかという問いには、「公園で花を愛でるのがイスラムだ」とカンダハル州のムラー・モハメド・ハッサン知事は答えた。
タリバンの支配下では、アフガニスタンはポルポト派が支配したカンボジアのような原始社会に戻っていった。そこには電気やガスといった最低限のインフラさえない。彼らは2500年も前に作られたバーミヤンの巨大石仏さえ破壊した。各省庁は機能をほぼ停止し、午後は祈りと昼寝の時間となった。
2千万人もの人口を抱えながら、タリバン政権の財政省が編成した年間の国家予算は約10万ドルにすぎない。首都カブールでさえ、市民の平均的月給は3ドル程度。全国で稼働している工場は、義足、松葉杖、車いすなどを作る所だけという有様であった。
彼らが公園で花を愛でていたのかどうかは定かではない。
参考文献 『タリバン イスラム原理主義の戦士たち』
--Bunkyo-student2008 2009年6月17日 (水) 19:28 (JST) Cos