征韓論
出典: Jinkawiki
征韓論
征韓論とは、日本の明治初期において、当時留守政府(明治政府首脳部で組織された岩倉使節団が欧米歴訪中にその留守を守るために組織された体制を指す)の首脳であった西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎らによって提唱された、武力を持って朝鮮を開港しようという主張である。 ただし、「征韓論」の中心的人物であった西郷隆盛の考えは「出兵」ではなく、開国を勧めるために自らが朝鮮に赴く「遣韓使」であったとする説もある。
経緯
江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らによって、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられた。こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。明治維新後に対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、意気があがっていた。明治3年2月、明治政府は佐田白茅、森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後征韓を建白した。以後も数名を派遣するが、朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、日本国内においても征韓論が沸騰した。
明治六年政変
明治6年6月森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。一度は、明治6年(1873年)8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定した。しかし同年9月に帰国した岩倉使節団の大久保利通、岩倉具視・木戸孝允らは時期尚早としてこれに反対、同年10月に遣韓中止が決定された。また岩倉使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、国内が急激な改革で混乱していたことが大久保らの態度をさらに硬化させた。この決定により西郷、板垣、後藤、江藤、副島など当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。このことを明治六年政変または征韓論政変と呼ぶ。
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