スピリチュァリティ教育

出典: Jinkawiki

2010年1月19日 (火) 23:32 の版; 最新版を表示
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スピリチュァリティ教育とは、「偉大な宇宙意思との繋がりや、永遠の生命(魂)の存在、奥深い人生の仕組みなど、スピリチュアルな概念を前提にする人間観・宇宙観を、人生のあらゆる事象に価値を見出すための思考法として活用しながら、勇気と希望と使命感に満ちた人生を歩むことができるように導くこと」である。

スピリチュァリティ教育の基本方針とは、人生のあらゆる事象に意味や価値を見出すことができるような、適切な思考法や有益な情報を効果的に伝えることによって、相手が自分自身で「心の免疫力や心の自己治癒力」を高めていくよう導くことである。言い換えれば、「もしかすると宇宙には、自分という人間を真の幸福へと導いてくれるような、奥深い仕組みや法則があるのかもしれない」という希望や、「少なくとも、そのように仮定しながら生きていく方が望ましいのではないか」という合理的判断に至るように、対象者に情報提供しながら問いかけていくことが、スピリチュァリティ教育の方法論だといえる。

飯田史彦(福島大学経済経営学類教授)の提唱する、スピリチュアルな概念を活用した「生きがい論」に共感した吉田武男(筑波大学大学院人間総合科学研究科教授)が、教育学の研究者としての具体的な見解を加えながら議論を展開し、それらを踏まえて、さらに飯田がスピリチュァリティ教育の全体像を整理したものである。

目次

生きがい論

生きることの意味、生きる目的、生きる喜び、生きるに当たって心の支えになるような何らかのもの、これらのことを、日本語では「生きがい」という言葉で表現する。「生きがいとは、より価値ある人生を想像しようとする意思のことである」とし、このような意味の「生きがい」を持っている人は、人生を構成するあらゆる要素に対して、自分自身で積極的に価値を見出すことができるからである。

世の中には、人生観が根本的に異なる人々が混在しており、生きがい(より価値ある人生を創造しようとする意思)を持って前向きに生きている人々もいれば、それを持つことができずに苦しんでいる人もいる。これらの人々の違いを、価値観論(人間の思考の仕組みについて論じる学問領域)の観点から分析すると、次のように整理することができるだろう。

「生きがい」を持ちにくい人生観

人間にとって「生きがい」を持ちにくい人生観とは、「自分は偶然性の積み重ねの中で生きているだけであり、人生展開を支配する宇宙法則など存在しない」という思考方法である。本人が自覚している程度については個人差があるが、具体的な言葉にすると、例えば、次のように考えながら生きることを示す。

・自分は、偶然、この地球に生まれてきた。

・自分は、偶然、この場所に生まれてきた。

・自分は、偶然、この両親のもとに生まれてきた。

・自分は、偶然、あの人を好きになったり、恋人になったり、振ったり振られたりした。

・自分は、偶然、この仕事に就いた。

・自分は、偶然、あの時、あのような出来事にあった。

このような考え方で生きていくと、「人生は失敗・挫折・不幸などの悪い偶然性に満ちており、自分はしばしば、それらの被害者となる」という、暗い気持ちに陥りかねない。なぜなら、人生で起きる出来事には深い意味などなく、「世の中には、たまたま幸運に恵まれて安楽に生きている人もいれば、たまたま不幸に見舞われて苦しんでいる人もいる」というのが、辛く哀しい現実だという解釈になるからである。

「生きがい」を持ちやすい人生観

人間にとって「生きがい」を持ちやすい人生観とは、「自分は、人生展開を支配する様々な宇宙法則のもとで生きており、人生で生じるあらゆる出来事には、必ず深い意味や理由がある」という思考方法である。本人が自覚している程度には個人差があるが、具体的な言葉にすると、例えば、次のように考えながら生きることを示す。

・自分は、よほどの理由があって、この地球に生まれてきた。

・自分は、よほどの理由があって、この場所に生まれてきた。

・自分は、よほどの理由があって、この両親のもとに生まれてきた。

・自分は、よほどの理由があって、あの人を好きになったり、恋人になったり、振ったり振られたりした。

・自分は、よほどの理由があって、この仕事に就いた。

・自分は、よほどの理由があって、あの時、あのような出来事にあった。

このような考え方で生きていくと、「人生は、自分を成長させる修行課題としての順調な訓練に満ちているが、本質的な失敗・挫折・不幸は存在しない」という解釈のもとで、あらゆる出来事や人間関係に深い意味づけを感じながら、真に前向きな生活をを送ることができるだろう。

スピリチュァリティ教育の三類型

スピリチュァリティ教育は、次の三種類に分類されている。

宗教的スピリチュァリティ教育

宗教的スピリチュァリティ教育とは、それぞれの宗教団体や信者が、独自の宗教的な思想(教義)を伝えることによって、対象者を導こうとする方法である。したがって、特定宗教の信者であることを明らかに自覚しており、信仰心の強いものに対しては、非常に有効に作用する。そのため、対象者の宗教宗派の教義に応じて、伝達内容や教育方法を変える必要がある。ただし、日本人の中には、強い信仰心を持つ信者は少ないと思われるため、宗教的スピリチュァリティ教育は、多くの日本人に対して一般性を持つ方法であるとはいえない。

ただし、宗教的スピリチュァリティ教育を行なうにあたっては、マナーとして、その教育が基盤とする宗教宗派の名前を、きちんと対象者に明示しておくことが求められる。背後に特定宗教が存在することを隠しておくのは論外であるうえ、「仏教では」「キリスト教では」という大雑把な言い方も公正な表現ではない。なぜなら、同じ「仏教」や「キリスト教」の中にも多種多様な宗派が存在しており、重要な点で教義がことなっているからである。

科学的スピリチュァリティ教育

科学的スピリチュァリティ教育とは、宗教団体ではない組織や個人が、科学的な思考や情報を伝えることによって、対象者を導こうとする方法である。したがって、特定宗教の信者の自覚がなく、スピリチュアルな概念を否定あるいは疑問視する者に対しては、うまくいけば、大いに有効に作用する可能性がある。このような対象者は、現在の日本人の大多数を占めると思われるため、科学的スピリチュァリティ教育の重要性は、ますます高まっていくことであろう。

ただし、相手の価値観や許容力に応じて、慎重に、伝達内容や教育方法を変える必要がある。その適切な処方箋の開発こそが、この種のケアの発展のために不可欠であることは間違いない。

複合的スピリチュァリティ教育

複合的スピリチュァリティ教育とは、特定の宗教団体とスピリチュァリティ教育の専門家が協力しながら、その宗教宗派の教義と、それに即した科学的情報とを組み合わせて伝えることによって、対象者を導こうとする方法である。したがって、特定宗教の信者であることを明らかに自覚しながらも、教えの信憑性に疑念を抱いている者に対しては、かなりの有効性を期待できる。特定の宗教団体に属している日本人の中には、教義に対する科学的疑念ゆえに親交が深まらない人々が多いため、宗教団体にとって、この手法の追求は大いに価値があることだろう。

スピリチュァリティ教育の問題点

スピリチュァリティ教育は、各種の心理療法や医薬品と同様に、効果だけでなく、副作用ももたらす。代表的なものを挙げると、つぎのような問題点を持っているといえるだろう。

対象者のオカルト的興味を増大させ、悪質な組織や悪意を持つ人物から利用されてしまう危険性

その意味や適切な処方についてきちんと学んでいない方々が、安易に「スピリチュァリティ教育めいた行為」を行なうと、対象者のオカルト的興味をかきたてるだけで終わってしまう危険性がある。スピリチュァリティ教育は、良質な効果よりも悪質な副作用のほうが大きくなってしまう危険性を持っており、そのような場合には、「むしろ行なわないほうが良かった」という結果に終わりかねない。

特に避けるべきなのは、対象者にスピリチュアルな知識を中途半端に教え、その効果的かつ安全な活用方法までは教えなかった場合、対象者が他の情報源から更なる知識を得ようとして、うっかり悪質な人物や組織にかかわり、大金を奪われるなど利用されてしまう危険性である。残念ながら、世の中には、その種の人物や組織が少なからず存在しており、わなにかかって格好の標的になる人々をあの手この手で捜し求めている。

対象者の価値観や潜在意識によって発生する「予想不可能な反応」の数々

スピリチュァリティ教育は、対象者の深い潜在意識にまで直接に影響を与えるため、場合によっては、対象者本人でさえも予想しなかった、様々な反応が生じてくる。

例えば、スピリチュアルな概念や情報を知ってしまったばかりに、それまではなんとも思っていなかった「夜」や「交通死亡事故現場」や「お墓」などが、急に怖くなることがある。対象者本人も、まさか自分にそのような副作用(恐怖感)が起こるとは、思ってもみなかったと告白する。

このような現象は、たとえ良質なスピリチュァリティ教育を慎重に行なったとしても、本人も気付いていなかった幼少時のトラウマ(心の傷や恐怖体験など)が残っており、スピリチュアルな知識に対して過剰に反応してしまうことによって生じるようである。こればかりは、対象者本人も気付いていない潜在意識の中のトラウマが原因であるため、教育を行なう前に予想することは困難であり、どうしても対症療法が中心になってしまう。

対象者が「真理」や「証拠」の追求に過度に走ることにより、かえってストレスを増大させてしまう危険性

スピリチュァリティ教育の大きな問題点は、対象者が求めてくる「証拠欲求」を、際限なく満たさなければならなくなってしまう危険性である。もちろん、人間であれば、「科学的にみた宇宙の真理を詳しく知りたい」という知識欲そのものも抱きますが、通常、科学的スピリチュァリティ教育を受け入れるタイプの人は、科学の正常な進歩には時間を要することも知っているので、「現時点で宇宙のすべてを理解したい」などと無茶なことは求めない。その代わりに、「現時点で分かっていることに関する確かな証拠」を、「もっとほかに」と求めてくるのである。その欲求には際限がないため、「これだけの証拠があれば、もう充分ではないか」といえるだけの情報を提供しても、「まだまだ物足りない」といわれ続ける宿命にあるわけである。

一方で、宗教的な信仰心とは、「教祖や教団の思想を、科学的根拠など一切求めないで丸ごと受け入れる」ということであるため、「証拠追求の呪縛」からは解放されている。その代わりに、教祖や教団のトップたるものに対しては、超人(全知全能)であることを求めることが多く、信者は「真理追究の呪縛」に陥りやすいのである。信者たちは、教祖や教団に対して、「より詳しい宇宙の真理を教えてほしい」と求め続けるので、信者の欲求に対処するためには、「いずれ学びを積んでいけば、あなたにも理解できるときが来るでしょう」と、先延ばしにするしかない。

参考文献

飯田史彦 吉田武男 著 『スピリチュァリティ教育のすすめ』 PHP研究所 2009年


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