前田慶次郎利益

出典: Jinkawiki

2010年2月8日 (月) 00:12 の版; 最新版を表示
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生涯

通称・前田慶次、本名・前田慶次郎利益(天文2年(1533年)?/天文10年(1541年)? - 慶長10年(1605年)?)/慶長17年(1612年)?)

戦国時代の武将・文化人・かぶき者。 後の加賀百万石の前田家の創始者である前田利家の兄で前当主の前田利久の養子で、実父は滝川一益の一族の滝川益氏か益重あたりだとされ、利久の妻の連れ子とも甥ともいう。 滝川一族が伊賀の出である為、忍術に造詣が深く書かれる事も多い。

マンガの影響で年若に見られがちだが、諸説ある生年の多くは1540年代前半である事が多いので、前田利家と同年代と見るのが妥当と思われる。 利久は慶次に跡目を継がせるために、自分と利家の間の兄弟である安勝の娘を慶次の妻とした。 しかし、1567年に利久が病になると信長は養子の慶次ではなく実弟の利家に前田家を継がせてしまった。 その後しばらく利久と慶次一家の消息は途絶えるが、どうやら利久は利家の元で隠棲し、慶次は滝川家に陣借りしていたようである。 1580年頃に利家に能登一国が与えられると、利久も七尾城代などを勤めるなど復権し慶次も呼び寄せられて利家の家臣となった。 その後、石山合戦に参加したり、佐々勢に攻められた末盛城救援などに活躍したりするなど武名を上げている。 1587年に利久が亡くなると、利家(一説にはその子利長)との仲が悪化し、1590年頃に利家を騙して氷水の風呂に入れた上に愛馬を盗んで前田家を出奔したという。 この時、妻子は前田家に残った。 上洛した慶次は文化人などと交流し、風流人としても名を天下に広めたという。 上杉景勝と直江兼続に出会って意気投合したのもこの頃だといわれる。 1599年頃に上杉家に仕官し、1600年の関が原合戦においては会津にあって、長谷堂城の戦いに参加し活躍する。 前田家(東軍)に残っていた慶次の嫡男はこれに怒って親子の縁を切ったという。

この後の慶次の晩年は明らかでない。 前田利長に捕らえられて幽閉され、大和の幽閉先で死んだとも、上杉家と共に米沢に移って捨扶持を与えられ底で没したともいう。


傾奇者の慶次

前田慶次は自由の美学を貫いた風流武者であり、天下一の「傾奇者」と呼ばれているが、数々の奇行が伝えられているのでいくつか紹介しておく。

・前田利家に茶の招待をしたが、茶の前に風呂を勧める。寒い日に風呂は何よりの馳走と湯殿に入ったが、寒風が容赦なく吹き込み、湯舟には薄氷が張っていた。利家が激怒したのは言うまでもない。

・上杉に仕えた時、慶次は旗指物に「大ふへん者」と書いていたが、上杉の将兵は「大ふへん者」を「大武辺者」という意味と思い込み、「自らを大武辺者と称するのは怪しからん」と抗議するが、慶次は「お主らは大武辺者と読んだのか。それは違うぞ。わしは浪々生活が長引いたので大不便者と記したまでだ」と頓智のきいた答えを返したという。

・米沢城下を荒しまわる鼻毛の長い大男がいた。慶次は「その鼻毛を一両で買おう。早く伸ばせ」と、下肥を顔にかけて懲らしめ、金を与えて改心させた。

・上杉氏の菩提寺の林泉寺の住職が横柄だと聞けば、頭を張る賭け碁を仕掛けてその碁に勝ち、住職を殴って気絶させた。

など、まだその他に伝えられている奇行は多くあるが、上杉景勝が米沢へ削減された慶長6年(1601)、京から米沢までの「道中日記」や、遺された和歌などから、慶次の文才の一端を窺うことがでる。

参考文献 http://www.city.yonezawa.yamagata.jp/

『一夢庵風流記』 隆慶一郎

『花の慶次 ―雲のかなたに―』 原哲夫


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