豊臣秀頼
出典: Jinkawiki
豊臣秀吉の三男。位階は正二位。官職は右大臣。文禄2(1593)~慶長20(1615)
生涯
秀吉の後継者として異例の昇進を遂げ、慶長3年(1598)にはわずか6歳にして従二位権中納言に進んだ。翌年の元旦、秀頼は伏見城で初めて諸将の年頭拝賀を受け、その月のうちに、秀吉の遺言により伏見城から大阪城に移った。 家康の専横が激しくなる中、翌慶長5年6月、家康の上杉討伐に臨んでは餞別の品を送って激励した。家康軍は豊臣家から認められた正規軍として東征に赴いたことになるが、三成の挙兵で、家康軍の帰属は曖昧なものになった。 東軍方の伏見城が落城した直後、秀頼は豊国社に湯立神事を命じた。西軍の戦勝を祈願したものかもしれないが、湯立の釜が二度にわたって破損する「凶事」が出来し、先行きに不安を残す神事になったといわれている。 関ヶ原本戦では西軍が大敗したが、家康は、今回の叛乱は秀頼の関知するところではない、と秀頼の「罪」を問わなかった。これを機に豊臣家は摂河泉66万石の一大名に転落したという見方もあるが、この時点では依然として家康の地位はあくまでも秀頼の後見役に過ぎないというのが当時の認識だったと思われる。 しかし、その後、徳川の権力が確立するなかで、秀頼の地位が相対的に低下し、大坂の陣で滅亡に追い込まれた。