相撲

出典: Jinkawiki

2010年2月8日 (月) 21:39 の版; 最新版を表示
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概要

相撲は、腰にまわしを巻いたはだかの2人が土俵上で取り組み合い、相手を押したり、ついたり、投げたりする競技である。相手を倒すか土俵の外に出すかで勝ちになる。相撲は日本固有の宗教である神道に基づいた神事であり、日本国内各地で「祭り」として「奉納相撲」がその地域住民により、現在も行われている。健康な体と恵まれた体格を持った男性が、己の力を発揮し、神々に敬意と感謝を示す行為であるので、そのため礼儀作法が非常に重視されている。相撲は千数百年前に始まり、今のような形になったのが江戸時代である。力士は、江戸時代の一般の髪型であるまげをゆっており、審判役の行司も約600年前の侍と同じ服装をしている。力士が取り組み前に、土俵の上で塩をまくのも神聖な土俵を清める意味があるなど、日本の伝統文化を残しているのである。そのため日本の歴史と伝統、文化を表すスポーツとして国技とも呼ばれ、国民に理解されている。サッカーや野球など日本にはさまざまなプロスポーツがあるが、日本で最も古いプロスポーツは相撲である。


相撲の勝負

相撲は土をかたく固めた土俵の上で行われる。四角形の台の上に俵で作った直径4メートル55センチの円があり、この円内が競技スペースになる。伝統的に力士の年齢・身長・体重に関わらず無差別に行われる。自分の取り組みの順番になって四股名(力士の名前)を呼ばれた力士は土俵に上がり、四股を踏んだ後、清めの塩を土俵にまき、相手の動作に合わせて腰を落とし、仕切り(いつでも立ち上がれる体勢)に入る。相手と呼吸を合わせ、両こぶしを一度下ろして立ち上がり、試合開始となる。行司は、力士の取り組み中、技をかけているときは「残った」、両者動かないときには「はっきよい」(発気揚々=さあ、がんばれの意味)と声をかける。勝敗が決したとき、それがどのような技によるかを判断したものが決まり手である。当然様々な場合があるが、公式な決まり手として、投げ・掛け・反り・捻りを中心にしたものがある。かつては四十八手と言われたが、現在では大相撲協会が77の技名と技でない決まり手5(勇み足など)を決めており、そのどれかに分類される。 また、このほかに8つの禁じてがある。握りこぶしで相手を殴ること、目やみぞおちなどの急所をつくこと、相手のまげをつかむことなどは反則負けになる。


 相撲の歴史

相撲に似た格闘技が大昔から世界各国で行われてきた。日本では4世紀頃の古墳時代の出土品から相撲人形があり、古事記や日本書紀の神話、伝統にも登場する。 稲作が始まると、農民の間にその年の稲がたくさん取れるように祈ったり、豊作かどうかを占う行事として行われていた。奈良・平安時代には宮廷の儀式になり、天皇の前で相撲を取る天覧相撲が行われた。武士の時代になると、戦いに必要な武術として力強さが強調され、武家では力士を雇うようになった。織田信長は、毎年力士を集めて相撲大会を開催するほどの相撲好きだと言われている。現在の相撲は江戸時代に由来している。寺社や寺を建てたりする寄付を集めるために金を取って相撲を見せる興行、「勧進相撲」をはじめ、プロの力士が誕生した。そして、偉い人たちに限らず、一般の人たちの娯楽になっていったのである。江戸や京都で相撲興行が盛んに行われ、力士の「にしき絵」が作られ、人々の相撲人気が高くなるにつれ、喧嘩や争いごとが絶えなくなり、幕府はたびたび禁止令を出した。そのため、相撲関係者は相撲の決まり手を四十八手にしたり、今のように土俵を丸く俵で仕切るなどルールを決め、力士を養成する部屋制度も作ったのである。

古代 『古事記』の日本神話においては、建御雷神(タケミカヅチ)の派遣(葦原中国平定)の際、建御名方神(タケミナカタ)が、「然欲爲力競」と言った後タケミカヅチの腕を掴んで投げようとした描写がある。これが、相撲の起源とされている。

弥生時代 『日本書紀』には、神ではなく、人間としての力士同士の戦いで最古のものとして、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」(「すまひとらしむ」または「すまひ」と訓す)での戦いである(これは柔道でも柔道の起源とされている)。


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